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 姫君の憂鬱


 ― 1 ―


 風に潮の香りを嗅いだ。
 ここ暫く、ずっと嗅いでいた香りだが、風に流れ陽の匂いが混じった潮の香りは何だか新鮮で不思議な感じがした。
 杏色の大きな瞳の少年――愛らしい面立ちは少女のようではある――ユウナは、少しべたついてしまった淡い茶色の髪を、潮風にそよがせた。
 風が流れてくる通りの端を振り返れば、碧い海に船を浮かべる港が見える。
 港町であるここは、今まで旅をしてきて立ち寄った数々の村や町の中で、群を抜いた賑わいを見せていた。
 雲ひとつない青空の下、燦然と輝く太陽光を浴びながら、通りを走る子供たちの姿。
 そんな子供たちの幼い声の狭間で、馴れ合う男女の享楽的な笑い声が交差した。
 開放的で活気付いた町の雰囲気に、戸惑いすら覚えるほどに、ここには生気が満ちていた。
 災厄への恐怖も、それによって侵される未来への不安も、死の影も。
 全てを吹き飛ばすほどに、快活な声が通りの端々から聞こえてくる。
 水揚げされたばかりの鮮魚を売る漁師の、花を売る少女の、海を渡って旅をしてきた者たちに今宵の宿を提供しようとする客引きの――声が町中のあちらこちらで張り上げられ、ユウナの耳に飛び込んできた。
 大海を渡ること、十四日。
 ユウナは何故か、東の大陸にいた。
 そう――何故か。
 何故、ここに自分たちが立っているのか、ユウナとしてはよくわからない。
 そもそも、この町は次の目的地と定め向かうはずだった場所とは、はるかにかけ離れた場所だったから。
 カツンと綺麗に敷かれた石畳に靴音を響かせて、伝説の女神と噂されるが如く絶世の美貌の麗人サーラが、
「貴方に問います」
 無感動な口調で口火を切った。
「――グエン、――これはどういうことなのでしょう?」
 白銀の髪の間から、薄紫色の瞳を僅かに眇めたサーラを前に、黒髪に藍色の瞳の青年グエンは、精悍な若者らしい顔立ちに引きつった笑みを浮かべつつ、長身の体躯を縮めた。
「えっーと、……ふ、船を乗り間違えちゃった……みたいな?」


                     * * *


 この世界には、百年に一度、〈ゼロの災厄〉と呼ばれる日が訪れる。
 何故、百年に一度なのか、誰にもわからない。
 言い伝えに寄れば、その日、昼と夜に身を変え、世界を保護している二人の神が生まれ変わるらしい。
 言い伝えであって、それを証明するものは何もない。ただ、〈ゼロの災厄〉のその日は、夜も昼もなく、太陽も月も出ない。
 闇があるわけでもなく、光があるわけでもない。
 雲が覆っているわけでもないのに、灰色の空が頭上に広がる。夜を迎える時刻になっても闇は訪れない、そんな一日。
 その日は、世界を守る神の加護が失われる。
 この世界は二人の神の加護を受けた箱庭。だが、その加護を失う日、異世界から流れてくる来訪者がいる。それら来訪者を、総じて魔族と呼んでいた。
 人の形をしたもの、獣の形をしたもの、形すら無きもの。
 彼ら魔族は、人より大きな能力を持ち、長い寿命を持つ。それ故に、人を見下し支配しようとして、人と魔族は事あるごとに争ってきた。
 魔族が来訪する――それを〈ゼロの災厄〉と呼ぶ。
 その規模は時々によって変わるが、最悪、文明崩壊。
 それまで築いてきた歴史が無へと――ゼロへと返ることから、いつしか人々は〈ゼロの災厄〉と、百年に一度のこの日を恐れた。
 二年後に新たにやってくる〈ゼロの災厄〉に備えて、黒魔法師のユウナ、剣士のグエン、そして、白魔法師のサーラの三人は旅をしていた。
 次にやって来る〈ゼロの災厄〉にどれだけの魔族が来訪してくるのか、わからない。そして、今なお、魔族に苦しめられている人たちがいる。
『一人でも多くの人を救えたら、いいね』
 それを合言葉に、冒険者学校を卒業したその日、パーティを組んだ三人の旅は、五ヶ月を数えていた。
 三人が最初に出会ったのは、南の大陸の北方に位置する冒険者学校。
 ユウナは西の大陸で生まれたが、彼の故郷は長い間、魔族による支配によって、国としての陣形はもとより、多くのものを失っていた。
〈ゼロの災厄〉対策として、いつからか出来上がっていた冒険者学校とギルド。
 全世界に、全容を把握できないほど多く点在していたが、西の大陸ではその存在は壊滅的なダメージを受けていた。
 人を支配する魔族が、自らに牙を剥こうとする冒険者たちを許すはずがなく。彼らを育てようとする組織は根絶やしにされた。
 今から二十年前に、西の大陸の殆どを支配していた魔王は、ユウナの両親によって倒された。
 それを機に、多くの冒険者が西の大陸に入り、魔王の配下となって大陸の各所を牛耳っていた魔族たちを駆逐し、西の大陸はそれなりの平穏を得ることが出来た。
 十六歳のユウナが生まれる前のことで、物心をつく頃には、人々の生活も多少なりと融通の利くものとなっていた。
 同じように冒険者学校もギルドも、再建が進められていたが、指導する側の人材不足という深刻な問題を抱えていた。
 そこでユウナは、両親の許可を得て、南の大陸に渡り、冒険者学校でも名の有ったところへ身を寄せた。そして、卒業試験の現場で、グエンとサーラに出会い、旅立った。
 先の〈ゼロの災厄〉によって、やって来た魔族を退治しながら、経験を積むこと。それが、三人のとりあえずの目標である。
 南の大陸をとりあえず、東に向かって旅をしていた。目的地は特に定めていない。立ち寄った町のギルドで、魔族に対する情報を拾い、それを片端から倒していった。
 卒業したばかりの三人が、冒険者として足りないのは、経験だ。とにかく、多くの場数を踏むことを目的として、移動距離は最短を選び、体力づくりを兼ねて歩いての旅。
 そんな一行が船に乗ったのは、大海を渡るのではなく、大河を渡るためであった。
 大陸を二分するかのような大河を前に、グエンが先頭を切って乗り込んだ船は、十四日の航海の後に、大きな港町に接岸していたというわけである。


                     * * *


 目的地と違うところに、降ろされることとなったユウナの戸惑いは、大きく。
 そしてサーラは、静かに怒っている様子だ。
 低く吐き出す呼気に乗せて、声を淡々と響かせる。
「――間違えた? その一言で、全てが解決されると思ってはいないでしょうね。如何に貴方の思考能力がここ最近、めまぐるしく劣化していようと」
「ううっ。素直に馬鹿と言ってくれたほうが、まだ、良いよ」
 グエンがサーラの冷たい視線から、逃れるようにユウナの背後に隠れて言った。
 それはどうだろう? と、ユウナは小首を傾げて思う。
 面と向かって、馬鹿と言われても、ダメージは変わらないように思えるのだが。
 サーラは美貌を一つも崩すこのない無表情で、冷然と吐き捨てた。抑揚のない口調も、冷たい視線も何一つ、いつもと変わらない。
 彼女にとってはそれが普通である。
 しかし、形の良い唇から紡ぎだされる言葉は、いつにも増して強烈であるとユウナは思った。
「貴方の希望に沿うてやらなければならない義理が私にあると思うのでしたら、一度、医者に脳を開いてもらうことをお奨めします。腐食した部分を取り除かなければ、侵食は他の部位にも広がります。貴方が唯一、誇れる剣士としての才も、脳が発信する情報によって成り立っているのですから」
 かなり婉曲した言葉の数々であるが、サーラの言いたいことを拾い上げれば、
「――何で、私がお前なんかの頼みを聞いてやらねばならない? 腐った頭しか持っていない、剣だけが取り柄の馬鹿に――」
 と、言ったところだろうか。
 ユウナは意訳してしまった言葉の辛辣さに、目を剥く。
 サーラはもとより、他人と距離を取る傾向にある。
 それは彼女が白魔法師の中でも――補助魔法を扱う魔法師をそう称する――珍しく、優秀な「癒し手」であるからだ。
 白魔法師と言えど、生命魔法の領域に手を伸ばす者は少ない――習得するのが難しく、また生命魔法は術者の気力を削ぐ負担の大きな魔法なので――そんな中で、サーラは動物相手とはいえ、死んだものを蘇らせる蘇生魔法を成功させた稀有な魔法師だった。
「命の女神」、「生命の女王」という、異名で敬意を払われる彼女には、多くの冒険者パーティから、誘いが来ていた。それは全て、サーラの生命魔法を当てにして。
 優秀な「癒し手」がいれば、危険な地へも旅立つこともそう、深刻にならずに済む。
 しかし、頼られる側としては、信頼という甘美な言葉に誤魔化されても、払う現実は変わらない。自らの気力を削ぐような術を安易に求められるのは、たまったものではない。
 故に、サーラは他人の甘えに厳しく素っ気ない態度を取る。
 だから、冷たい言葉も冷めた視線も、サーラの人となりを知れば、ユウナには彼女の自己防衛の一貫に過ぎないとわかった。
 そして、本当はとても優しい人だと、この頃では確信している。この旅の道程で、サーラは優しい気遣いを何度も見せてくれたから。
 だけど……。
 グエンを前にしたときのサーラは、誰よりも増して、徹底的に容赦がないような気がするのは……何故だろう?
 今もユウナ越しに、グエンを見つめる瞳の冷たさは、剣の切っ先を喉元に突きつけるような、剣呑さを湛えていた。
 その視線を直視するグエンは、薄紫色の瞳に宿る殺気に肝を冷やしている様子で、ユウナの肩に置いた手が微かに震えている。
 底なしの体力と、不死身かというような強靭な肉体を持ち、冒険者学校に在籍するそのときから一目置かれていた剣士が、華奢なユウナの背中に隠れているなどと。
 冒険者学校での彼を知る者は、誰も想像などしなかっただろう。
 そんな両者に挟まれたユウナは、おずおずと口を開く。
「サーラさん、もう過ぎてしまったことですし……」
「ユウナはそれで良いのですか?」
「えっ?」
「この十日近く、船酔いに苦しんだことを、全てなかったことにするのですか? リーダーとしてパーティの命を預かっている以上、ユウナが味わった苦痛を、グエンに自覚してもらうべきことかと、私が思うのは間違っているのでしょうか?」
 静かに問いかけられた内容に、ユウナは和解を求めるために用意していた言葉を喉の奥で詰まらせた。
 十四日の船旅の途中、大きな嵐に遭遇した。派手に揺れる船倉に――陽も届かないかび臭い中で――身を置いていたユウナとサーラが、酷い船酔いに悩まされたのは記憶に新しい。
 そんな二人の仲間を前に、グエンはと言うと。
 やっぱり、底なしの体力馬鹿を発揮して。
『どうしようっ! 大丈夫っ? ユウナちゃんっ! 姫っ!』
 と、騒ぎ倒していた。
 それはもう、はた迷惑なくらいの大声で。
 こみ上げてくる吐き気を堪えるのに必死な人間の前では、その健全さに殺意を覚えるほど。
 それを思い出せば、間違えたとの一言で、ユウナとサーラが被った被害を帳消しにするのは……。
「ユウナちゃん?」
 助けてくれると思っていたユウナが、助け舟をなかなか出してこないことに、グエンは首を傾げてこちらを覗きこんできた。
 藍色の瞳の暢気さを見上げれば、やっぱりユウナとしても、サーラの方に肩を持ちたくなるような……。
「………………」
 無言で見上げた視線が痛かったのか、グエンはスススッと、ユウナから距離を取って地面に座り込んみ土下座した。
「ごめんなさい。――謝るから、ユウナちゃんまで冷たくしないでっ!」
「……あ、あの……」
 衆人環視の中で、プライドの欠片もないような低姿勢のグエンに、逆にユウナは戸惑う。
 沢山の視線がこちらに集中するのを気配で感じて、ユウナは慌てる。
 どうしよう? と、サーラを伺えば、彼女はこちらに背を向けて既に歩き出していた。
「…………っ!」
「ごめん、本当にごめんなさい。この通り、謝るから」
 地面に額を擦り付けているグエンには、サーラのことなど見えない。まして、ユウナが置かれている現状を察する余裕もない。
 止めてください、と声を掛けようものなら、「ユウナ」が自分であることを、周囲に知らしめることになる。それは、ちょっと嫌だと思う。
 そうして、ユウナはサーラに習って、グエンを放置した。
 グエンが取り残された事実に気がついたのは、それから五分後のことだった。


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