沈黙の代償 ― 1 ― むせ返るような濃密な空気を吸いながら、淡い茶色の髪を額の上で滑らせて、ユウナは視線を頭上へと向けた。 天上を覆うのは、緑の木の葉。 ――緑、翠、碧と、それは濃く、淡く。 ひと言で、ミドリと言ってしまうにはあまりにも短慮な、様々な色合いをしたミドリの木の葉。 陽光を受け葉脈を浮き上がらせた、透明な木の葉を見上げれば、天の青を覆っていた。 重なる緑と緑の、美しき色合いに魅せられるように杏色の瞳を見開いて、ユウナは呆然と呟いた。 「……あの、グエンさん。…………空が見えないのですけど」 「――嘘っ?」 ギョッと、藍色の瞳を剥いて振り返ってきた黒髪の青年は、グエン。 彼は首の骨をグキッと鳴らすようにして、顎を上向かせては、天を仰いで立ち尽くす。 そんなグエンの背中に声を飛ばすのは、白銀の髪に薄紫色の瞳がやや冷たい印象をもたらす絶世の美女、サーラ。 「それで、グエン? ――北はどちらの方角なのでしょう?」 ユウナは目線を落として、肩越しにサーラを振り返る。 すると彼女は、剣の切っ先を突きつけるような鋭い視線を、グエンの背中に差し向けていた。 細められた切れ長の目元。剣呑な眼差し。だけど、その視線一つをとっても美しい、女神と称えられる美貌は一つも揺るがない――無表情。 空を探しているグエンに、サーラの視線は見えないはずであったが、突きつけられた殺気には気づいたらしい。 大げさなくらいの反応で、彼は身体を反転させた。 「こ、こういう場合はっ! 樹の育ち具合を見るんだ!」 肘まで覆う黒い手袋を――指先はカットしてある――嵌めた右腕を持ち上げて、グエンは傍に立っている樹木を指差した。 ユウナはグエンの指先を杏色の瞳で追いかけた。 常緑樹が群生している森の中心、乱立する木々はどれも似たような育ち方をしていた。陽光の恩恵を求めるように、枝葉を天へ向かって高く伸ばしている。 人が両手を掲げ万歳をした図に似て、樹は広げた手のひらに沢山の緑の葉を繁らせていた。 「それで――北は、どちらなのでしょう?」 指差された樹を横目に見やって、サーラは頬を傾けた。 斜め下から見上げるように、グエンに向けられた薄紫色の瞳。その目線は、見上げているはずなのに見下すように――冷たい。 目視した人間を凍りつかせるほどに――冷たい。 グエンが、ゴクリと喉を鳴らす音をユウナは聞いた。彼の横顔を伺えば、健康そうな肌色が今は真っ青だった。 「あの……グエンさん?」 「…………ゴ、ゴメンなさい」 彼は喉の奥から声を搾り出すようにして、告げた。 そして蛇に睨まれた蛙のように、サーラから視線をそらせずに、棒読み口調でグエンは続けた。 「方角が……わかりません」 「………………あの、それって」 もしやと思っていた展開に、ユウナは唖然となった。 ――お約束、過ぎるっ! 一瞬、ユウナの脳裏に過ぎった突っ込みに対して――決して、声に出たわけではない――、 「……遭難しちゃった? ……みたいな」 頬を引きつらせてグエンは笑う。 ――笑っている場合ではないだろう? と、ユウナは思うが。 突きつけられた殺気に逃げ場がないという現実を前にすれば、人は恐怖から逃避すべく笑うらしい。 「――グエン」 サーラは一歩、グエンへと距離を縮めて静かに呼びかけた。 「私の前から――消えてくださいませんか? 未来永劫」 そうして、低く吐き出したサーラの一言に、グエンが悲鳴を上げる。 「――いやぁぁぁぁぁっ! 捨てないでっ!」 * * * 百年に一度、〈ゼロの災厄〉と呼ばれる日が訪れる。 何故、百年に一度なのか、誰にもわからない。 言い伝えに寄れば、その日、昼と夜に身を変え、世界を保護している二人の神が生まれ変わるらしい。 言い伝えであって、それを証明するものは何もない。ただ、〈ゼロの災厄〉のその日は、夜も昼もなく、太陽も月も出ない。 闇があるわけでもなく、光があるわけでもない。 雲が覆っているわけでもないのに、灰色の空が頭上に広がる。夜を迎える時刻になっても闇は訪れない、そんな一日。 その日は、世界を守る神の加護が失われる。 この世界は二人の神の加護を受けた箱庭。だが、その加護を失う日、異世界から流れてくる来訪者がいる。 それら来訪者を、総じて魔族と呼んでいた。 人の形をしたもの、獣の形をしたもの、形すら無きもの。 彼ら魔族は、人より大きな能力を持ち、長い寿命を持つ。それ故に、人を見下し支配しようとして、人と魔族は事あるごとに争ってきた。 魔族が来訪する――それを〈ゼロの災厄〉と呼ぶ。 その規模は時々によって変わるが、最悪、文明崩壊。 それまで築いてきた歴史が無へと――ゼロへと返ることから、いつしか人々は〈ゼロの災厄〉と、百年に一度のこの日を恐れた。 二年後に新たにやってくる〈ゼロの災厄〉に備えて、ユウナ、グエン、サーラの三人は旅をしていた。 次にやって来る〈ゼロの災厄〉にどれだけの魔族が来訪してくるのか、わからない。そして、今なお、魔族に苦しめられている人たちがいる。 『一人でも多くの人を救えたら、いいね』 それを合言葉に、冒険者学校を卒業したその日、パーティを組んだ三人の旅は、六ヶ月を数えていた。 * * * 「助けてくだり、ありがとうございます」 サーラが告げて、ユウナもまた深々と頭を下げた。 「本当に、ありがとうございます」 二人の言葉を受けて、頭を軽く振るのは、灰色のマントを纏った痩身の青年。 肩の位置で切り揃えた蜂蜜色の柔らかそうな髪が、端整な顔を包み、首の動きに合わせてサラサラと音を奏でる。緋色の瞳を僅かに細めて、青年は微かに笑う。 「――偶然だ。何にしても、出会えて良かった。この森は地元の者でも迷ってしまう場所であるから」 穏やかそうな雰囲気をかもし出しながら、どこか寂しげな影を付きまとわせて淡く微笑む青年に、サーラがため息を吐いた。 「そのような場所で、磁石を失くすという失態は、冒険者として恥以外の何物でもありません。全く……このような失態をおかす身で、冒険者と名乗って良いのか反省しなくてはなりませんね」 サーラは、自嘲するように言う。しかし、磁石を失くしたのは、彼女ではない。 「あの……サーラさん、今回は状況が状況でしたし」 フォローするユウナが失くしたわけでもない。 自然、三人の冒険者パーティの中で残る――グエンが、森の中で方位磁石を失くし、挙句の果てに遭難という事態を引き起こした。 「ゴ、ゴメンね?」 笑って取り繕おうとしたグエンを、薄紫色の瞳が冷たく振り返る。 「貴方という人間は、どこまで浅薄なのでしょう。その一言で、全てが許されると思っているのでしょうか。誠意を示すなら、黙って首をくくったらどうですか? どうせ、馬鹿は死にませんから無駄でしょうが」 「……姫。怒っているなら、殴ってくれていいから――言葉のナイフを突きつけるのは止めてっ! 本気で痛いからっ!」 胸に手を当てて、グエンはヨロリとよろめいた。 「貴方相手に殴ったところで、どれほどの効果があるというのです? 死なない馬鹿を相手に、拳を使うだけ無駄です。指が腐ります」 「腐らないってっ!」 半泣きのグエンを無視して、サーラは続ける。 「本来なら、貴方が私の前から消えてくださるだけで事足りるのですが――」 「ユウナちゃん、俺を捨てないでっ!」 グエンが悲鳴を上げて、ユウナに取りすがった。 サーラ相手だと、一言で切り捨てられるのを見越して、ユウナに縋る。 「……あ、あの、サーラさん。グエンさんも反省していますし」 ユウナがそう言って、サーラを見上げる。 一見、少女と見間違う、花のような面立ちの少年ユウナにだけは、冷徹と言って差し支えないだろうサーラも、何故か弱かった。 サーラは少年を見、グエンを横目で睨んで告げた。 「ユウナに、感謝するのですね。最も、あまり恥ずかしい真似ばかりをしていますと、ユウナも愛想を尽かすでしょう。そのときは、ユウナ――グエンを捨てても構いませんね?」 サーラが先手を取って、ユウナに確約を求めてきた。 恥ずかしい真似って何だろう? ――ユウナは一瞬、真剣に考えた。 冒険者として? それとも、大人が泣いていること? 「…………あ、の」 何と答えたらよいのか迷い、視線を彷徨わせていると、痩身の青年が口を挟んできた。 第三者の目にも、サーラとグエンの間でどっちつかずのユウナがわかるのだろうか。 「そもそも、どうしてこの森へ」 青年は緋色の瞳を今しがた抜けてきた森へと戻した。 「僕たちは――あ、自己紹介がまだでしたね。僕はユウナです」 青年の助け舟に乗る形で、ユウナはサーラの問いへの返答を黙殺した。 「私はルセニア。この先の村に暮らしている――一応、猟師だ」 青年はユウナに笑いかけて、名を口にした。そして、灰色のマントを僅かに持ち上げると、腰に携えた矢筒を見せた。 「猟師さんなんですか?」 「一応な。……最近は、本業ではない方で森に入ることが多いが……な」 首を傾げたくなるような言葉を口にして、ルセニアはサーラとグエンに目を向ける。 「冒険者と言っていたが……」 「私は白魔法師をしています、サーラです」 「俺は剣士のグエン」 「僕は黒魔法師です」 ユウナは自己紹介をするサーラとグエンに続けて、自分の役割を口にした。 ルセニアは小首を傾げる。 「君たちはまだ……年若いように見えるのが……」 そう言うルセニアも、二十歳を幾ばくか数えたに過ぎないように見える。 「一応、俺が年長で二十歳だよ。姫が十八で、ユウナちゃんが十六」 「……それでも、冒険者?」 見習いではないのかと、言いたげにルセニアは緋色の瞳を瞬かせる。 「これでも、冒険者学校のそれぞれのクラスを首席で卒業したんだよ。それに、冒険者としての実績も、それなりにあるんだぜ。この間だって、ガリア王国を襲った魔族の集団を退治したんだ」 グエンは、先ほどまでの情けない姿を誤魔化すように、ルセニアに向かって胸を張る。 とはいえ、今までの姿が姿だったので、ルセニアは半信半疑の感を拭えない様子で、眉が半下がり気味だった。 「……そうか……」 「信じてないみたいだね」 「もしかして、森を抜ける予定だったのか?」 半眼のグエンから視線をそらすと、ルセニアがユウナに問いかけてきた。 「あ、はい。でも途中で、獣と出会って」 「ああ。凶暴なクマがいるというので、退治を頼まれ、今日は森へ入ったのだが――」 ルセニアはそこで合点がいったようで、笑った。 「もしかして、森の南の入り口で倒れていたクマは、君たちが倒したのか?」 「……南の入り口?」 「大きな楠木が生えていただろう。そこから南に下れば、私の住んでいる村へと続く道があるんだが」 「そ、そうなんですか?」 ユウナは目を見開いて、グエンを振り返った。 突然、クマに襲われたユウナたち一行は、焦ることなく獣を相手に一戦を交えた。魔族相手に命懸けの戦いを強いられているユウナたちが、ただ強大な体躯を持っているというだけの獣相手に負けるはずもなく――勝負はあっさりと、決着した。 そうして、先頭に立ってグエンが歩き出し、ユウナたちは森を抜けた先にあるというバゼルダの村を目指して……。 森の中心に舞い戻ってきていたということになるのか。 サーラから「消えろ」と告げられ、グエンが上げた悲鳴を聞きつけて、ルセニアが駆けつけてくれなければ。 (……僕たち、どこに向かっていたんだろう?) 北から入ってきたのだからと、グエンはひたすら南を目指していたはずだが。 出口まで迫っていて、道に迷ったという事実を前に、ユウナは疲労を意識せざるを得なかった。 「では――貴方は、バゼルダの村の住人ですか」 徒労感に思わず頭を垂れてしまったユウナに代わって、サーラがルセニアに問いかけていた。 「ああ、そうだが。それが、何か?」 何故そんなことを聞くのかと、不思議そうに首を傾げるルセニアがユウナにはわからなかった。 「だって、バゼルダの村に魔族が現れたってっ!」 |