― 10 ― カネリアが待つ部屋へと真っ直ぐに向かうルセニアの足取りには、逡巡する猶予などなかった。そうして、彼女が待つ部屋のドアを開けば、いつも通りにカネリアはルセニアの到着を待っていた。 とても無防備な姿勢で、彼女は長椅子に身体を横たえている。 いつも通りの光景を前にして、ルセニアは何故か、愕然とする自分を自覚せざるを得なかった。 ここには何も、人と魔族などという種族の隔たりはなかったのだと、思い知らされる。 「――ああ、来たな。待っていた」 大きなクッションに上体を預けた姿勢で、艶然と微笑むカネリアを前に、ルセニアは胸につかえていた迷いを振り払うよう、灰色のマントを右手で払ってひらめかせた。そうして、腰に装備した弓を構え、弦に矢を番えた。 狙いをカネリアの豊かな胸元に定めて、全てを打ち砕く終わりの言葉を口にした。 「――バゼルダ村に、魔族は要らない。村の為に、死んでくれ」 引き返して戻る道を、ルセニアは知らなかったから。 * * * (――今の我の現状を眼にすれば) カネリアはこちらに弓を構え、矢を番えたルセニアを前に、紅を塗った唇を緩めた。そうすると、ルセニアは緋色の瞳を微かに眇めながら、口を開いた。 「――バゼルダ村に魔族は要らない」 (お前は、笑うだろうか、フラン?) 「村の為に、死んでくれ」 その一言に、カネリアは笑みを唇に刻みながら、心に浮かぶ赤髪の青年へと語りかけた。 (――後悔すると言った、お前の予言が。現実になったのだから) くつ、と。 喉の奥で笑い声を響かせたカネリアに、 「何が、可笑しいっ?」 訝しげながら問い質してくるルセニア。 そんな彼と同じ緋色の瞳で視線を返しながら、 「――お前を笑ったわけではない」 カネリアは頬を傾けながら、微笑んで告げた。 「ただ一つ、我が笑うことがあるとするならば。それでも我は、沈黙を守るだろうということさ」 ルセニアに語りかけるというより、彼の中に面影を残した青年へとカネリアは笑っていた。 (ルセニアが我を殺せば……フラン。我が子は、我を忘れずにいてくれるだろう?) 親と名乗らないことを決め――二年後の〈ゼロの災厄〉を機に、思い出や我が子との決別を覚悟したこの身で、望むことがあるのなら。 傷となってでも、ルセニアの胸にこの存在を記して、最後のときまで――と。 かつて、愛した人間が亡くなったその後も、この身に、この胸に、この心に宿り続けたように。 カネリアは沈黙の代償に、己の死で永遠を願うのだった。 * * * 『――結婚してください』 やけに真面目な顔をして、フランは言ってきた。 燃えさかる炎のような赤い髪と水底のような深い青の瞳の、華奢な青年は魔族であるカネリアを前に、最初から決めていたとでもいうように、よどみなく声を響かせる。 『――何の冗談だ? フラン。我が何者であるか、忘れたのか?』 失笑しつつもカネリアは、その言葉を自分自身にも向けていた。 人間であるフランと関係を結んでおいて、まして腹に彼の子を宿してしまった。魔人の男たちがこれを耳にすれば、「何の冗談だ」と、目を剥くだろう。 数十、数百という求婚者をことごとく拒み続けた女が、よりにもよって人間の男にいれ込んだと知れば。 プライドの高い魔人の男たちは、フランを血祭りに上げることだろう。 人と魔族との力の差を見せ付けながら、皮を剥ぎ、肉を割いて、骨を砕いて、血を搾り出して。最後の最後まで苦しませて、彼を殺すに違いない。 そんな魔族の男たちの所業に辟易として、カネリアは同族を拒み続け、人間であるフランを愛した。 しかし、フランが同族たちに――そう想像すれば、カネリアの背筋は震えた。それと同時に、腹部にありもしない熱を感じた。 まだ形にすら成りえていない命が主張しているようである。 『冗談なんかじゃありません。ずっと前から決めていました。ただ、順番が逆になって……』 青年は一瞬、頬に朱を走らせる。人間の社会では、婚姻を結んでいない男女が関係を結ぶことは、まだ禁忌に等しいようだ。 『子が先に出来てしまったけれどっ!』 フランは自らが口にしたその内容に頭を横に振りながら、続けた。 『子供が出来ていなくても、私は貴方を妻に迎えたいと思っていました』 顔を上げて、フランはカネリアを見つめた。カネリアも黙して、フランの青い瞳を見つめ返す。 初めて出会ったときから、この青年の青い瞳に宿る熱を知っていた。その熱っぽい視線を、カネリアは甘美に受け止めていた。 魔人の女に対して、手駒を作る価値しか見出さない魔人の男たちや、魔族であることに恐れを抱く人間たちの中で、フランだけがカネリアを一個人として、見つけてくれたから。 だからこそ、失うわけにはいかないと思う。ただでさえ、人間という種族は短命で。瞬きのうちに、命を枯らしてしまうのだから。 そう決断すれば、早かった。 『無理だな。例え、お前がどれだけ我を求めようと――』 真っ直ぐにこちらを見つめてくるフランを前に、カネリアは腕を一閃させた。顔を背け、二人の間にある関係を断ち切るように、冷たい声を吐き出す。 『――我がお前のものになることはない』 スッと息を飲み込んだフランの顔色が、瞬時に青褪めるのをカネリアは視界の端に捕らえた。 『我がお前と関係を結んだのは、戯れだ。全て』 『……嘘です』 結んだ唇の端から、押し殺した声でフランは反論した。 『嘘ではない。現に我は、ここでお前を拒んだ。愛されていると思っていたのか? 我がお前のものになると? 笑止』 嘲るように声を響かせるカネリアの腹の内側で、熱が上がる。 『嘘です』 『我の言葉を疑るか? ――我はな、ここで己の腹を裂いて、お前の子を潰すことも厭わない』 『そんなこと、出来はずがない』 キッパリと言い切るフランの顔色は既に元に戻っていた。 知っているのだろう。彼を受け入れたときから、カネリアがフランを愛していることを。 そのことをフランは確信しているから、迷いもなく言い切れる。 『貴方には、出来ない』 だがしかし、カネリアにはフランのその認識を甘いと言わざるを得なかった。 この身に宿るフランの欠片。だが、それはフラン自身に勝るものではない。 彼を守るためならば、この身を傷つける行為にも、躊躇いはない。 『魔族の血を継ぐ子など、この世に生まれてくることの不遇を思えば、母として始末してやるべきではないか?』 軽蔑されても構わない。 そうだ。魔族との間に子を作ったとなれば、フランは村の人間からも爪弾きにされるだろう。 カネリアに対し臆することないフランは、これ幸いと、村人からカネリアへの繋ぎ役を任されていた。村の代表と言えば、聞こえはいいが、厄介ごとを押し付けられているに過ぎない。 ただでさえ、村人から異端視されている。そこへ、さらに魔族に狙われ、同族である人間に厭われる運命を、フランに強いることなど出来ない。 わざと、フランの反感を買うような言葉を並べて、カネリアは爪を尖らせた。 伸縮自在の魔族の爪はナイフのような鋭さを見せる。その爪を自らの腹に突き立てようと振り下ろしたそこへ、フランの腕が伸びてくる。 ガッという音がして、爪が骨を削る。肉を割いて滴る赤い血潮に、カネリアは息を呑んだ。絨毯の上に、ひたりヒタリと落ちた雫が、赤い花を咲かせる。 『何をしているっ!』 爪を受けた腕からこぼれる赤に、カネリアが激昂の声を上げれば、傷ついた腕を抱えて、フランは唇の端を緩めた。 『貴方こそ――私のために、御身を傷つけるなど』 『我はお前のためになど――』 震える声を吐き出すカネリアに、フランの腕が伸びれば、次の瞬間抱きすくめられた。その暖かい体温に、カネリアは身体中から力が抜けていくのを自覚した。 耳元に息が拭きかかって、フランの声が囁く。 『言い訳なんて、必要はありません。貴方がそう望むなら、私は貴方を求めない。代わりに、子供をください』 『――わかっているのか? これは、魔族の血を引くのだぞ』 『だけど、貴方の子だ。そして、私の子でもある』 『我はこの子を、我が子とは認めない』 そう言葉を吐き出す瞬間、喉が焼けるように引きつった。 『ならば、その子は人間です。人として、私が育てることに何ら問題はない。そうでしょう?』 カネリアの前で、フランは柔らかく微笑んだ。 どこまでも、真っ直ぐな視線で告げるフランに、反駁する気力を失い、カネリアは折れた。 そうして、生まれてきた子にフランは、ルセニアと名づけた。用意していた産着を赤子に着せると、彼はカネリアの前から家へと帰っていった。 カネリアはこの翌日から、村の女たちを世話係りとして屋敷に呼び寄せることにした。 フランとの距離を取るためであったが、彼は前と変わらず、カネリアに接してきた。 村の女たちの手前、あくまでも村の代表という立場をとり続けたが、彼の傍らにはカネリアと同じ瞳の色をした幼子の姿があった。 父親の影に隠れながら、怖々とこちらを見つめる緋色の瞳。年を追うごとに、顔立ちにフランの面影を色濃く映していくルセニアに、カネリアは自らの心が揺れるのを自覚せざるを得なかった。 フランはもしかしたら、カネリアの心に現れる変化を狙っていたのかもしれない。 親の情が芽吹くのを――。 ある日、二人きりになった。どういう状況で、そうなったのかは覚えていない。偶然か、フランが故意にそう仕向けたのか。はたまた、自分がそれを望んだのか。 二人きりの部屋で、フランはこのタイミングを逃せないとばかりに、単刀直入に言ってきた。 『あの子に、ご自身が母親であることを名乗り上げませんか?』 一瞬、その言葉に、カネリアの首が前へと傾きかけた。 だが、守るべきものが増えたことに気づけば、安易に頷けるはずもない。 『我は――親になった覚えはない』 胸の内にわきあがる感情を押し殺して、カネリアが冷たく拒絶すれば、 『……カネリア様』 フランは絶望的な声を発した。 頑ななこちらの決意を覆すことが容易ではないと、察したのだろう。 『――我は魔族だ。魔族が人の子を産むはずがない』 『どうしても、名乗っては下さらないのですか』 『くどいぞ』 フランとルセニアを窮地に立たすことになるとわかっていて、どうして、親だと名乗れると言うのだろう。 『貴方が後一歩、私たちに――人間側に歩み寄ってくだされば、私はどんな苦労も厭わないというのに』 頭を振って嘆くフランに、カネリアの心はざわめいた。 その苦労を背負わせたくないから、拒むしかないのだと――心の声は叫ぶ。 だが、言葉にするまでもなく。既にフランもこちらの心情を承知しているのが、青い瞳が湛えた絶望の色に見て取れた。 互いの心が、今も変わらず想っているから、相手のためにと願えば願うだけ、距離を作る。 本心を語ることも、暖かい腕に癒されることも、もう許されない断崖が二人の間に存在する。 『私は貴方の選択を認めません。しかし、それが貴方の望みなら……。一つだけ言ってよろしいか。きっと、貴方は沈黙を後悔する日が来るでしょう』 『――我は後悔などしない』 そう冷たく声を響かせながら、己の心が血を流しているのを、カネリアには他人事のように感じていた。その血が身体から抜けていき、足元すらおぼつかなくなる。世界が揺れているような、視界が暗くなっていくような。 遠くなる世界の果てから、それでも彼の声は耳に届く。 『いいえ、きっとします。きっと』 確信を持って告げるフランの目には、涙が溢れていた。 嗚咽を堪え、静かに雫を頬へとこぼして、彼は真っ直ぐにカネリアを見据えていた。 『私は貴方の選択に従いましょう』 『――ですが、忘れないで下さい』と、フランは涙声を響かせる。 『貴方の後悔が、貴方が私たちに与えてくれた愛情の証です。貴方が私たちを愛していると言うのなら、きっと貴方は後悔する。私は、それを信じている』 * * * ルセニアは矢を向けられても、動じる様子のないカネリアに戸惑っていた。 従順だった村人に突然、害意を向けられても、彼女の顔色は変化することはなく。 かといって、怒りに震えることもなく、静かに緋色の視線を返してくる。 「――何故?」 ルセニアは、呻くように呟いていた。 彼女は人間をなんとも思っていないはずだ。 人を灰に変えることに、何ら躊躇しない。だから、矢を向けたルセニアも彼女の怒りに触れて、灰に変わるはずだった。 その行為は、彼女を悪と断定し、ユウナたち冒険者を動かすことになる。 だが、カネリアは動かない。 「――何故、私を殺さないっ? テッドを殺したように、私を殺せっ! 私は貴様を殺そうとしているのだぞっ!」 声を張り上げれば、指先が震えて、狙いがずれた。 唇を噛んでルセニアは再度、カネリアの心臓へと狙いを定めるが、彼女は優艶に微笑んでいる。 そこに見える優しい表情に、逆にルセニアの方が困惑した。こちらに彼女を害する力がないと侮っているというより、全てを受け入れようとしている諦観が、緋色の瞳の奥に見え隠れする。 「……何故――」 指先から力が抜けていく。 元々、彼女を害する意思なんてなかったルセニアはそれ以上、弓を構えていられなかった。 番えていた矢が床へと落ちるその瞬間、轟音がルセニアの鼓膜を叩いた。 |