天明の記憶 ― 1 ― ……何も見たくない。何も感じたくない、と。 そうして、藍色の瞳を閉じても暗闇は記憶を反芻する。 死んで逝った母の、凄惨な最期。 この身に与えられた数々の諸行。 ――爪を剥がされ、刃が肌を貫き、肉を引き裂くその様も。 ――焼かれた鉄の鎖を腕に巻かれ、皮膚が焦げ付いたあの日の出来事も。 忘れたい記憶の一つ一つに精神が散り散りに引き裂かれる。苦痛が蘇る。 過去の激痛に悲鳴を吐き出しても、それは声にならず、嗚咽に変わった。 しゃっくりをあげて泣く、その自らの声も。 ……聞きたくない。何も要らない、と。 耳を塞げば、血流が鼓膜を叩いて、鼓動が身体の内側で、リズムを刻む。 ドクドクと身体を流れるその音が、生きていることを証明してみせても。 ……嫌だ、辛い、死にたい、と。 泣いて叫んだ。 ……殺して、と。 咆哮した。 そんな自分の耳に降ってきたのは、優しい声。 春風のように優しく穏やかで柔らかな声音は、耳元に下りてきてそっと囁く。 『生きていくことを辛いと感じるのはね、君が知らないからだよ。生きていくことの楽しさを、幸せを』 そんなもの知らなくてもいい。 だから――殺して欲しい、今すぐに。 この汚れた血流を止めて、息の根を止めて、解放してほしい。 そう縋るように訴えれば、声は軽やかに笑う。 『君を絶望から解放してあげるよ。君を助けるために来たんだから。……でも、僕は君を殺さない。代わりに、希望をあげる。未来をあげる』 震える手を握ったその指先の温かさに、何かが解けていくような気がした。 『だから、生きて。一緒に、ここから出よう。――さあ、目を開けて?』 誘われるままに目を見開けば、光が見えた。 * * * 「……グエンさん。起きてください……お願いします」 人を起こすには覇気が足りない、むしろ寝ている人間の眠りを妨げないよう気遣うような声音が、まどろむ意識に割り込んできてグエンの耳に届いた。 その声に目を開ければ、こちらを覗きこむ花のような笑顔が、手を伸ばせば届く距離にある。 柔らかな笑みを優雅に湛えた、ピンク色の唇。杏色のつぶらな瞳は、部屋に差し込む日光を受けて燦然と煌めいていた。淡い茶色の髪は細くて、光りに透かすと金色にも見えた。小首を傾げるその仕草で髪は、サラリと耳に心地の良い音を奏でる。 朝一番の目覚めに拝むには、男にとって願ったり叶ったりであるだろう、可愛らしさ。 ただし、その笑顔が男でなければ――の話である。 少女のような面立ちであるが、れっきとした少年であるユウナは、グエンの覚醒に口元を緩めて可憐に微笑む。 「……良かった、グエンさん。起きてくれて……」 「お早う、ユウナちゃん」 笑みを返しながらグエンは、ちょっとだけ少年が女の子だったら、と思ったことは内緒にしておく。誰よりも己の外見に劣等感を抱いているのは、ユウナ本人であるのだから。 最も、その愛らしさをこの上なく愛している者もいる。 グエンは額にかかった黒髪を掻き上げながら、その姿を探せば、窓辺に佇む彼女は陽光を後光のように背負って、凛然と背筋を伸ばして立っていた。 白銀の髪に、どこか冷たい感じを覚える薄紫色の瞳の女性の美貌は、女神のようだと称されるほどに、完璧で崩れたところが一つもない。眉のライン、鼻筋、顎のライン、全てに歪みなどなく、優美な線を描いていた。 そんな彼女はサーラといい、ユウナを溺愛していた。それが果たして、恋愛感情なのか否かは、推してしかるべきであるが。 「お早う、姫」 朝の挨拶を口にして、グエンはサーラに笑いかけた。 瞬間、彼女の切れ長の目元が細くなった。薄紫色の瞳がナイフのような鋭さを湛えた……ように見えるのは、気のせいだということにしたい。 グエンは笑顔のまま、表情筋を固まらせた。 「随分と遅いお目覚めですね」 凍えるような冷気を纏った声が返ってくる。ユウナと自分に対するサーラの反応の温度差は、出会ってからこちら、ますます開いていくような気がするけれど……気のせいだということにしたい。 「ええっと、そんなに遅かった?」 グエンは剣呑な雰囲気をかもし出すサーラから、さりげなさを装いつつ、ユウナへと視線を流す。 ――姫から逃げたわけじゃないからね、と。 誰にともなく、心で言い訳しながら、思う。 そういえば、昔の夢を見ていた気がする。 夢を見るというのは、グエンにとっては珍しいことだった。それは、意識を完全に手放していたことになり、どんな事態でも対応できるように、眠りを調整していたグエンにとっては失態ではあった。 その辺りのことを、サーラは怒っているのだろうか。 首を傾げつつ、ユウナを見つめる。すると少年は困ったような顔をして笑った。 「先刻、お昼の鐘が鳴りました」 「――もう、昼っ?」 近頃、気を張り詰めていたからと言うのは――実際に疲れていたかと言えば、疲労感はさほど感じていなかった。むしろ、気を緩めすぎての熟睡であるだろうから、この言い訳は――どこまで言い訳として認めてもらえるだろう? 恐る恐るグエンは、サーラを見やった。 * * * 百年に一度、〈ゼロの災厄〉と呼ばれる日が訪れる。 何故、百年に一度なのか、誰にもわからない。 言い伝えに寄れば、その日、昼と夜に身を変え、世界を保護している二人の神が生まれ変わるらしい。 言い伝えであって、それを証明するものは何もない。ただ、〈ゼロの災厄〉のその日は、夜も昼もなく、太陽も月も出ない。 闇があるわけでもなく、光があるわけでもない。 雲が覆っているわけでもないのに、灰色の空が頭上に広がる。夜を迎える時刻になっても闇は訪れない、そんな一日。 その日は、世界を守る神の加護が失われる。 この世界は二人の神の加護を受けた箱庭。だが、その加護を失う日、異世界から流れてくる来訪者がいる。 それら来訪者を、総じて魔族と呼んでいた。 人の形をしたもの、獣の形をしたもの、形すら無きもの。 彼ら魔族は、人より大きな能力を持ち、長い寿命を持つ。それ故に、人を見下し支配しようとして、人と魔族は事あるごとに争ってきた。 魔族が来訪する――それを〈ゼロの災厄〉と呼ぶ。 その規模は時々によって変わるが、最悪、文明崩壊。 それまで築いてきた歴史が無へと――ゼロへと返ることから、いつしか人々は〈ゼロの災厄〉と、百年に一度のこの日を恐れた。 二年後、次にやって来る〈ゼロの災厄〉にどれだけの魔族が来訪してくるのか、わからない。そして、今なお、魔族に苦しめられている人たちがいる。 『一人でも多くの人を救えたら、いいね』 それを合言葉に、冒険者学校を卒業したその日、パーティを組んだ三人の――黒魔法師のユウナと白魔法師のサーラ、そして剣士のグエンの――旅は七ヶ月を数えていた。 * * * ひと月前、サーラは一人の魔人の怒りをわざと買った。自分を目の敵にさせて、後を追わせるように自ら、餌になることを買って出たのだ。 ある村を救うため――二人の人生を守るために。 それ故に、グエンたち一行の冒険の旅に、支障が出るようになったことは言うまでもない。 魔人の襲撃に怯えつつ、また周りの者たちを巻き込まないよう気を配り、町へと立ち寄るのを極力避けた。 そうしながら、魔人の怒りが他へと逸れないように、サーラの存在を示さなければならない。女神のような美貌で否が応でも目立つサーラは追跡しやすいだろう。しかし、幾ら美しいからと言って、人の口にのぼる話題が「白銀の髪の美女」では、サーラと特定できない。 その美女が冒険者であることを知らしめるためには、魔族を狩るのが一番だ。 それからのひと月、グエンたちはギルドで手に入る情報を頼りに、魔族を狩った。だが、現在旅をしているこの大陸は、魔族が他の大陸に比べると少ない――情報伝達が行き通らず、冒険者たちの耳に入ってこないだけなのかもしれない。 先月立ち寄った村でも、魔族の存在は信憑性の低い噂として上げられていたのだから。 それでも、手に入れた情報を頼りに走り回った結果、十件近くの魔族を狩った。とはいえ魔族も色々で、多く狩ったのは魔獣だ。敵としては手強い相手ではないが、名を売るのには成功したのだろう。ギルドに顔を出せば、名乗らずとも向こうからこちらを認識してくれた。まだ、パーティを組んで一年にも満ちていない新米にしては、上々の評判だった。 風の噂となって、あの魔人の耳にも届くだろうと思われた。届いてくれないと、困るのだが。 見下している人間の、しかも女に対して受けた屈辱を綺麗に忘れられるほど、魔人のプライドは安くはない――それを見越しての、サーラの計画だったわけだが。 ただ、その辺の疲労がピークに達する頃ではある……。 魔人の襲撃は怖かったが――魔人自体は、強敵ではあるが倒せない相手ではないことは、先日に証明済みだ。 何よりも懸念するのは、魔人の襲撃によって、周りの者を巻き込むことだった。 そんな事態になったら、ユウナは心を痛めるだろうし、サーラは限界まで魔法を使って無理をするだろう。 だからこそ、身体を休めるのも重要だと、一番の年長者であることで、一応リーダーと言うことになっているグエンは訴えた。 『体調を万全に整えておけば、どんな事態にも素早く対応出来るはずだよ。無理をして、いざと言うときに動けなかったら、幾ら気を使っても駄目でしょう?』 そう二人を説得して、昨夜は町の宿屋に部屋を取った。そうして、久しぶりの柔らかな寝台に横になってみれば――。 グエンだけが、昼まで爆睡していたのである。 これだと二人を気遣ってのはずが、自分が疲れていたから宿を取ることにしたと思われてもしょうがない有様だ。 ただでさえ、グエンに容赦のないサーラがこの絶好のチャンスを――チャンスって、何だ? ――見逃してくれることはないだろう。 「えーと、姫。……ゴメンね?」 返ってくる冷たい反応を覚悟して、グエンは遅く起きたことを謝る。 肘まで覆う黒い手袋。それに包んだ右腕を顔の前に持ち上げて謝罪すれば、白皙の美貌はグエンに向かって素っ気なく言ってきた。 「――別に。大層、お疲れのご様子。そのまま永眠してくださっても、私は構いませんが」 「……死なせないでっ!」 半泣きで、グエンは反論した。 ユウナがグエンの覚醒に「良かった」と言ったのは、サーラがグエンを置き去りにすることを提案したからだろうと、過去を振り返れば容易に推測できた。 ……何度、捨てられたことだろう? 谷底に突き落とされたこと、一回。置き去りにされたこと、数え切れず。この前は、魔法の風で遠くへと吹き飛ばされた。 そんな過去を思い出すだけで、グエンの目尻は熱くなり、じわりと涙が溢れそうになる。 最高の仲間を見つけたと思い、ユウナとサーラのためなら、我が身も惜しくないと尽くしているのに――恐らく、それがサーラの神経に障るのだろうと、思わなくもない。 サーラはもとより、他人と距離を取る傾向にあった。冒険者学校で出会った当初の彼女は、ユウナですら取り付く島などなかったくらいだ。 それは彼女が白魔法師の中でも――補助魔法を扱う魔法師をそう称する――珍しく、優秀な「癒し手」であったからだろう。 白魔法師と言えど、生命魔法の領域に手を伸ばす者は少ない――習得するのが難しく、また生命魔法は術者の気力を削ぐ負担の大きな魔法なので――そんな中で、サーラは動物相手とはいえ、死んだものを蘇らせる蘇生魔法を成功させた稀有な魔法師だった。 「命の女神」、「生命の女王」という、異名で敬意を払われる彼女には、多くの冒険者パーティから、誘いが来ていた。それは全て、サーラの生命魔法を当てにして。 優秀な「癒し手」がいれば、危険な地へも旅立つこともそう、深刻にならずに済む。 しかし、頼られる側としては、信頼という甘美な言葉に誤魔化されても、払う現実は変わらない。自らの気力を削ぐような術を安易に求められるのは、たまったものではないだろう。 故に、サーラは他人の甘えに厳しく素っ気ない態度を取る。 ……それがサーラには普通だった。 だが、パーティを組んでからのサーラは、ユウナに対して目に見えて甘くなっている。そうして、グエンにはますます容赦がなくなっていく。 氷のような態度、針のような刺々しさ。 彼女が自分に対して容赦がない理由を、グエンは何となく知っていた。この身体は、肉体に受けた傷が瞬時に回復してしまう。この身に流れる穢れた血が原因で。 サーラがその血を差別しているわけではない。 彼女は秘密を明かしたグエンを前に、一片たりとも同情を見せなかったが、動揺もしなかった。ただ、淡々と受け止めて、グエンの秘密をユウナから守ろうとしてくれている。 穢れた血が与えられることになった過程をユウナが知ったとき、少年の心傷つくことを憂慮しているのだ――そのことから垣間見ても、サーラはやはりユウナに甘くなっていると言えるだろう。 そんな彼女の繊細な心遣いに対して、あまりにも自分が、大雑把過ぎるのが彼女の反感を買っているのだろうということを、グエンは自覚しないでもない。 仲間を守るために、無茶をしてしまう自分。それによって、秘密がばれる可能性があるとわかっていても、己が身を盾にすることを止められない。 サーラにしてみれば、もっと仲間を信用しろ、と言いたいのだろう。彼女の魔法に頼れば、ユウナから秘密を守ることも容易い。 だけどこればっかりは、頭で考えるより条件反射で行動してしまうのだ。サーラがいかに優秀な魔法師でも、彼女に負担を掛けたくない。 ユウナと同じに、サーラも大切な仲間であったから。 そうして、サーラとグエンの間には埋めようのない溝が出来、二人の間をユウナがかろうじて繋ぎとめているような状態だった。 |