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 光を受けて銀色に反射する鏡面の前で、右目を覆っていた黒い眼帯をはずすと、眼窩が暗い穴を開けていた。
 本来ならそこには左目と同じように、氷を張った湖のような薄い蒼色の瞳が収まっているはずであったが、今は何もない。
 ――暗い空ろな洞。
 片手にした球体をその穴の中へと埋め込めば、薄紫色の瞳が曇り一点もなく磨き上げられた鏡の向こうから見つめ返してきた。
 漆黒の髪に、傷一つない――右目を失くした際の傷は、魔族特有の治癒能力で塞がった――滑らかな肌、端整な顔立ちの青年像。蒼と紫の異なる双眸を持つ己が影に重なって、ディア・ルイーズは、白銀の髪を持つ美貌の女神を見た気がした。
 無慈悲で冷ややかで揺るぎのない視線を持つサーラを思い出せば、ディアの身体の内側を突き抜ける何かがあった。
 戦慄か、憎悪か。
 この感情に何と名前を付ければよいのか、わからない。
 ただ、無意識に伸ばしたディアの手は、無機質な鏡面に爪を弾かれた。
 伸縮自在で鋼鉄の硬さを持つ魔族の爪に、鏡はピシリと音を立てた。やがて、クモの巣状に鏡の表面に亀裂が走れば、銀の破片が床へとこぼれる。
「キャ……」
 後方で、短い悲鳴が上がった。
 ディアが肩越しに振り返ると、年の頃だけならばサーラと変わらないであろう女がいた。女の手の中にはビロードを敷いた小箱がある。先ほどまで、ディアの片目――義眼が収まっていた箱である。
 身の回りの世話をさせるために、奴隷の中から選んだ人間の女はディアと目が合うと、鏡の破片が散った床に、小箱を両手に――その両手の甲には何やら、植物の花のような文様の刺青が彫られてある。恐らく、先の主人が――ディアが殺した、確か名をガデンと言った魔人が、己の奴隷たちに目印として付けたものだろう。魔人の中には、そうして奴隷たちを己の所有物だと主張する輩がいた。それとも、この女が属する民族の習慣か? ――包み込むように持ったまま、額をこすりつけて頭を垂れた。
「――も、申し訳ありませんっ!」
 許しを請うその声は、緊張に張り詰め、甲高く響く。
 耳障りな声音の騒々しさにディアは眉間に皺を寄せて、女を見下した。
 女の髪は枯れた葉色。瞳も朽ちた葉色をしていた。何一つとして、サーラに似ていない。故に選んだはずだった。
 サーラと少しでも似ていると思えば、殺したくなると思っていた。
 そんな些細な理由で殺していたら、世話をする女がいなくなってしまう。
 奴隷は幾らでも調達出来るが、また初めから教育しなおさなければならないのは、面倒なことこの上ない。そう思ったからこそ、ガデンが世話係に登用していたこの女を、そのまま選んだと言うのに。
 ディアの胸の奥でフツフツと煮えたぎる熱があった。
(――サーラなら、決して跪かない)
 確信が、怒りにも似た感情を沸き立たせる。
(――あの女なら、決して悲鳴など上げない)
 魔族であるディアと相対しても、決して恐れなど浮かべることなく。むしろ挑むように、こちらを見つめ返してきた薄紫色の瞳。真一文字に結んだ唇。そして、彼女から与えられた屈辱は、冷たい義眼の感触と共に、ディアの中に楔のように打ち込まれている。
 先月、ディアはサーラという女魔法師の冒険者に、右目を奪われた。
 それだけならまだしも、彼が求婚していた魔人の女カネリアを殺された。
 実際のところ、サーラがカネリアを殺したのかどうか、疑問の余地が残るところではあった。カネリア自身が死を望んだ可能性もあったのだ。
 どちらにしても、ディアは大事な花嫁を奪われた――形式上は、そういうことになるだろう。事情を聞いた同族たちは、少なくともそう判断した。
 このひと月、自らに寄せられた同情と侮蔑と屈辱に、ディアは乱れそうになる己の心を律し、冷静さを求めた。
 ゆっくりと記憶を反芻して、混乱する感情を整理する。
 ディアは同族に同情されるほど、カネリアに対して、愛情なんて感じていなかった。
 魔人の女は、男に対して絶対数少なかった。一人の女に千人の求婚者が群がることなんて、稀なことではない。
 だからこそ、魔人の女は貴重であった。魔人が子々孫々、繁栄していくためには、子供を生める女は宝である。そして、女は優遇されてきた。
 そんな魔人たちの世界では、女を妻に迎えることが出来る男は、同族の中でも一目置かれる。
 子孫を残すことが出来る特権。血族を持つ魔人は子の数だけ、自在に使える駒を持つことが出来るということだ。
 同族間にでも支配階級があれば、より多くの魔人を支配できる者が、上に立つ。
 ただ、それだけの為に、ディアはカネリアを妻に迎えようとしていた。同族からすれば、ディアの行為は抜け駆けに等しかっただろう。
 カネリアは同族との関係を絶っていたので、魔人たちの間ではその存在を知る者はごく僅か。
 上位階級に属し、自らの力を誇示したい男たちは、まだ誰のモノにもなっていない女を我が物にするのに必死だった。カネリアの存在を知りながら、同族たちに秘密にしていたディアは、陰で笑っていた。
 だからカネリアを死なせ、貴重な女を失ってしまった事実に、同族たちはこぞってディアを貶めた。ディアの無力さを嘲る者もいた。
 実際に能力比べをすれば、ディアと対等に戦える魔人はそう多くない。故に、カネリアに求婚したくとも出来なかった男たちは、これみよがしに笑って見せた。
『――ルイーズ殿も、女にかまけ過ぎたのでは?』
 そんな軽口を不遜にも叩いてくれた者には、それ相応のものを返してやった。
 ディアは自らの手に、蒼い視線を落として、そのときの感触を思い出す。
 目を抉って、二度と口が利けぬように舌を抜いて、喉を潰した。
 それで勘弁してやろうと思ったが、床にひれ伏す姿が醜悪だったので、ディアは拳を胸に叩き込み、奴の心臓を潰してやった。
 如何に魔族が治癒能力に優れていようと、心臓を潰されれば絶命する。
 そうして、殺した相手の居城が、現在ディアの東の大陸での足場となった。
 元々、ディアは北の大陸で勢力を拡大させつつあるアレグレシアという名の、身分制度を布いた国を作り、ディアは王に次いで貴族階級の高位に属し、能力のない魔族を従えていた。
 国を任せている同族の存在を、ディアは王だとは思っていない。魔族の国が機能するまで、自分の代わりに玉座を温めてさせているに過ぎない。
 いずれ機会があれば、王の首を取るつもりで大人しく従っている振りをしている。
 計算の上で王の臣下と言う位置に立っていたディアを、冒険者に右目を奪われたことで能無しと判断した愚か者には、相応しい末路であっただろう。
 以来、あからさまに侮蔑する者は減り、媚を売るように同情する者が増えて、ディアを辟易とさせた。
 ――失くしたものと、得たもの。
 どちらが多くあったのかは、ディアにはよくわからない。
 カネリアに対する執着も、今ではあまり重要ではなかったような気がする。
 能力を誇示すれば、同族でもひれ伏させるだけの能力をディアは有していた。
 ただ、そんな自分が一介の魔法師に傷つけられたその屈辱は、他の魔人がどう言おうと拭えるものではない。
 昨今、魔人たちの間で、ある冒険者パーティの噂が上がるようになっていた。
 白銀の髪の女魔法師を含むというそれは、間違いなくサーラたち一行だろう。
 彼女らは精力的に魔族を狩っていた。こちらと対等に戦ったことで、奴らは自信を強めたのだろうか?
(――カネリアの安否がわからなかったから、本気が出せなかっただけだ)
 そう、心内で言い訳してみるも、黒髪剣士グエンの身体能力に圧倒されていたのは、事実だった。
(――奴は人間か?)
 舌打ちしながら、考える。
 人間が持つ身体能力をグエンは遥かに超えていた。それに彼はまるで全身が武器であるかのような戦法を取る。失うものなどないかのような、捨て身の構え。肉体が傷つくことを恐れていないかのように、自らの利き腕でさえ、惜しげもなくディアの爪の前に晒してきた。
 あれは、サーラという優秀な白魔法師の――防御系の魔法を操る者たちの一部では、生命魔法も取得する者がいると聞く。ディアを押さえ込むほどの重力魔法を操っていたサーラなら、生命魔法の習得も、さして難しくはないだろう――後ろ盾を信頼してのことだろうか?
 何にしても、今までディアが敵対してきた冒険者の中で、グエンは最も危険な剣士であった。
 そんなグエンがいて、サーラがいて。そして、ユウナと言う子供の魔法師も、魔法能力にかけては、他の魔法師たちに比べて抜きん出ていた。
 いずれ、この三人の冒険者たちが、魔族に対して脅威になるのは必然だろう。
 同族たちの間では、サーラたち一行に賞金を掛け始める動きが出ていた。冒険者が群れ集えば、相手が人間であれ、魔族にとっては危険な存在になりかねない。これ以上の能力をつけないうちにと先手を打って潰しに掛かるのは、当然の流れだろう。
 果たして、それがどちらにとって、凶であり吉であるか。
(俺から右目を奪った連中が、そう簡単に討ち取られては困る)
 スッと右目に手を伸ばして、ディアは指先に冷たい塊を感じる。本来の瞳の色と違う義眼を拵えたのは、誓いの証だった。
 ――あの女は、俺が殺す。
 声に出さずに、決意する。
 絶対だ。誰にも譲らない。
 そうして、ディアは眼帯を手にすると、血がにじみ出るのも構わず、床に額を擦り付けている女の脇をすり抜け、部屋を出た。


                   * * *


「――待ってよっ!」
 悲愴感を漂わせながら追いかけてくるその声に、ユウナが肩越しに背後を振り返れば、グエンが宿屋から飛び出してくるところだった。
 バタバタと慌ただしく、靴底を石畳に叩きつけるように鳴らして走ってくる――剣士という職業柄、気配を消すのが得意なはずのグエンであるが、彼が気配を殺すことは滅多にない。敵と相対した場合、自らに注意を引き付けて、こちらが動きやすく気遣ってくれるのだ――その姿に、ホッとユウナが胸を撫で下ろしていると、傍らで微かに舌打ちする音が聞こえた……気がした。
 遅く起きたグエンが目覚めた後、何かを考えるように物思いにふけった隙に、サーラはユウナの手を取って宿を出た。
 彼女はグエンが寝ているのをいいことに、彼を置き去りにしようとした計画を――グエンが目覚めたことで、頓挫したかに思えたが――またも実行しようとしていた。
 幸いに、グエンが気づいて直ぐに追いかけてきたけれど。
(……サーラさんって、そんなにグエンさんと一緒に居たくないのかな?)
 ユウナはそっと、サーラの表情を横目で盗み見た。
 女神と称されるほどの完成された美貌を、もったいないと思わせる無表情。長い睫に縁取られた切れ長の目元、薄紫色の瞳は、近づいてきたグエンを無感動に映すと、微かに小首を傾げた。
 肩から胸元へとサラリと流れる白銀の髪が日光を受けて、彼女の美貌をさらに輝かせた。
 氷のように白く――。
「ゆっくり、休んでいて良かったのですよ」
 疲れているだろう相手に対して、心を配る優しい気遣いのようにも受け取れるそれは、遅く起きたグエンを暗に責めているようにも聞こえる。
 ……何故だろう?
 抑揚のない口調のせいか。動かない感情のせいか。
 本当はとても優しい人なのだと、ユウナはサーラのことを思っている。
 強い信念と厳しさで、甘えを許さない彼女だけれど、未来を望む人々を、彼女は自分が持つ魔法の力で守ろうとしているのだ。
 誰にも知られないところで、ひっそりと。細やかに心を砕いて、我が身を削って。
 そんな彼女の優しさをユウナは、今までの旅で幾度となく見てきた。同時に、グエンに対する手厳しさも目の当たりにしてきたが……。
「……だ、大丈夫。もう、しっかり休んだから」
 グエンが笑って、サーラに答える。白い歯を覗かせる唇の端が震え、頬が引きつっているように見えるが……見ない振りをしてあげるのが大人の優しさなのだと、ユウナはグエンに教わった。
「…………」
 そうして、ユウナが黙っていると、サーラもまた会話を拒むように唇を閉ざす。
 いつもなら、彼女の舌鋒はグエンへと毒を放つのだが――それはきっと、子供の自分にはわからない、大人の会話の機微なのだろうと、ユウナは最近思うようにしている――彼女は言葉を紡ぐのを止めて、グエンに背を向けた。
 大して広くもない町中の道を先頭切って歩き出すサーラに、グエンとユウナは顔を見合わせる。
 ……いつもと、違う?
 互いに目を見合わせれば、グエンの藍色の瞳にも困惑が見て取れた。
「――姫、どこに行くの?」
 グエンがサーラの背中に問いかけると、彼女は歩みを緩めずに言った。
「ギルドに向かいます。魔族の情報を得て、次の場所へと移動します」
 余計な言葉を挟まずに、端的に告げられたそれにユウナはサーラの焦りを見たような気がした。
 魔族の怒りをわざと買ったサーラは、自分がこの場所にいることで、周りの人間を巻き込みたくないのだろう。早く、町から離れたいと考えているのかもしれない。
 だとすれば、いつまでも宿屋で休んではいられなかったのだ。グエンを悪戯に置き去りにしようとしたわけでは、なかったのかもしれない。
 彼女が自分の考えを吐露しないから、ユウナとしては戸惑いが先行してしまうけれど。サーラはユウナの想像にも及ばない広い視野で物事を見ていた。
 開きかけるサーラとの距離を、ユウナは小走りで詰めた。そして、彼女の右隣に並べば、グエンもまた左隣に並んでいた。
 薄紫色の瞳が揺れて、こちらを見つめる。その視線を受けて、ユウナはニッコリと微笑んだ。
 何があっても一緒だ――と。
 瞳で告げれば、サーラが目を細めて微笑んだような気がした。


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