― 3 ― 緩風に背中を押されるように、ユウナは通りを歩く。 顎を反らして顔を上げれば、青の天蓋は穏やかに白雲を浮かべていた。天空からは眩しくも降り注ぐ柔らかな日差し。ユウナは煌めく金色の光に、そっと目を細めた。 ただ、ボーっと。 風に流れる雲の船を眺めていられたら、どれだけ平和だろうと、ユウナは考えた。 これからの未来に、恐れを抱くこともなく。心平和に、時を重ねることが出来たのなら、それはきっと幸せで。 だけど、その幸せをこの世界に生きている限り、手に入れることが出来るのは、極限られた運の持ち主であることをユウナは知っていから、眩い日差しを遮るためにかざした手のひらの影で、少年は杏色の瞳を曇らせた。 そうして、目線を落とし、首を巡らせて町の様子を見渡した。 決して広いとは言えない通りは、一応ながら石畳が敷かれていた。町の整備にお金をかけるだけの余裕があることが、それだけでわかる。 そんな路上に荷車を止め、その上に野菜の詰まった籠を並べて売る青年は、もしかしたらこの町の住人ではなく別の町から来た行商か。町から町への行き来が盛んだということは、ここら一帯、それなりに治安が安定していることの証明にもなる。 町の中央の通りを――この辺りは、商店が中心に並んでいるらしい――行き交う人々を見る限り、〈ゼロの災厄〉の恐怖や魔族の脅威からは遠いように思えた。 道の両端に並んだ店頭に、色とりどりに飾られた果実や野菜を選ぶ真剣な表情は、今宵の食卓を囲う家族を思いやっているのだろうか? 母親の手作りの料理に子供が舌を包み、美味しいと頬をほころばせる。 そんな日常だけしか、ここにはないように見える。 少なくとも、この一瞬は。 ――でも、と。 このひと月をユウナは思い返す。 各町の冒険者ギルドに立ち寄れば、〈ゼロの災厄〉の被害が少ないと思われていたこの大陸にも、魔族が多く息を潜めているのがわかった。 ギルドから受けた依頼は、魔獣退治が主だったものではあったけれど、グエンは懸念していた。魔人などの支配下に置かれ、情報が統制されているのではないかと。実際に魔族が人間を支配すれば、人々の悲鳴もこちらへ届くはずもない。 ならば、本当にこの地が平和かどうかなんて、わからない。 ただ一つでも、憂いを減らせれば……。 ユウナは先を行くグエンの背中に視線を戻した。 黒い半袖のシャツの上に、青い布地の袖なし上着を着た彼の背中は均整が取れていて、どうしても少女に身間違えられる華奢なユウナには、羨ましい肩幅をしていた。 決して、筋骨隆々という感じではなく、鍛え上げられ引き締まった肢体。しなやかで張りのある筋肉。 剣士としてのグエンは、まるで獣のような鋭敏な動きで、魔族を翻弄しては倒してきた。その技は、冒険者学校に在籍していたときから誉れ高く、クラスが違うユウナの耳にも――優秀な白魔法師であるサーラの噂同様に――届いていた。 そんな彼とパーティを組んで、実際に生身のグエンと接して、早七ヶ月。 サーラを相手にしているときのグエンを見ていると、時折頼りなく思えることもある。だけど、何かあったときに一番に対処出来るようにと、自分たちを背中に庇って先頭を行く彼はやはり、信頼出来るリーダーなのだろう。 いつも、快活そうに笑う笑顔で、こちらを和ませてくれる心遣いも年長者としての配慮から。 ユウナはどちらかと言うと、笑っているグエンしか、知らない。 先月、話の流れからグエンの過去を垣間見ることで知ったのは、彼には両親がいないということ。 どうしていないのか? 深く追求ことを憚られて、結局それ以上のことは聞けずじまいで今に至る。 彼が、誰よりも「仲間」というものに拘るのは、家族がいない孤独感を知っているからなのだろうか? グエンの背中を見る限り、そんな悲愴感とは無縁に思えるのだが。 『――死にたい』 ユウナは脳裏に蘇った、呻くようなその声に、己の胸元で拳を作った。 グエンが熟睡していたそのとき、彼の唇からこぼれた言葉。 『――殺して』 悲痛に響いたそれは、思い出すだけでユウナの心を掻き乱す。 目覚めたグエンは、いつものように白い歯を覗かせると快活そうに笑っていた。だから、それほど酷い夢ではなかったのかもしれない。 けれど、ユウナの鼓膜を打ったその言葉が、他でもなくグエンから発せられたことが信じられなかった。 夢の中でも、グエンがそんな言葉を吐くとは、思っていなかったからかもしれない。 本当は辛くても、仲間の前では明るく笑う彼だったから。 (……ううん。僕の前でだけだ) 辛いだろうと思う場面でも、ユウナの前でグエンは笑っていた。 サーラの言葉に傷ついた振りをして、泣いて見せたりするのに。そんなときは、素顔を見せてくれるのに。 ユウナが心配すると、彼は大丈夫じゃないときに限って「大丈夫」だと、笑う。 ガリア王国で、リスラという魔人と戦ったとき、グエンは魔人の自爆攻撃に巻き込まれていた。生き埋めになった彼に声をかければ、グエンは「大丈夫」だと、笑っていた。 あの後の混乱で、真相を確かめることは出来なかったけれど。彼の上着を染めていた血は、リスラの返り血ではなく、グエン自身の負傷に寄るものではなかっただろうか? グエンが笑うのは、多分自分に心配かけたくないためだろうということは、ユウナにも推測出来た。 (僕が……まだ子供だから) 二十歳であるグエンにしてみれば、十六歳のユウナは頼りないのだろう。まだ視野も狭く、ついつい感情で突っ走ってしまうこともあった。 そんな自分を省みれば、グエンが本音を晒すには、まだまだ頼りないと思う。 それでもユウナは思うのだ。 グエンもサーラも、二人ともこの上ないくらいに自分を気遣ってくれる。心配かけないように、一人で背負ってしまう。それは他でもない、二人の優しさと強さだけれど。 だけど、「仲間」という絆を結んだならば、もっと頼って欲しいと思うのだ。 頼りないけれど。何も解決は出来ないけれど。 でも、一緒に悩むことは出来る。背負うことは出来る。 二人が与えてくれる温かな優しさを前にすれば、ユウナはサーラを守りたい。グエンの助けになりたい。それが叶うならどんな試練にだって耐えてみせる。 グエンがユウナをパーティに誘ってくれて、サーラが一緒に歩いてくれることを選んでくれた。 それがどれほど嬉しくて、幸せなことか。 冒険者である以上、平和に暮らす幸せなんて、手に入れることは出来ない。いつ死ぬとも知れない危険と隣り合わせの生活に、得られる幸せはないと思っていた。 幼少の頃、まだ目が離せないユウナの面倒を見るために、母は冒険者稼業を中断していた。一人、冒険へと旅立つ父の背中はどこか寂しそうで。 だけど無事に帰還してユウナを抱きしめ、母に微笑みかける父の姿は幸せそうだった。 幸せは、争いのないところで初めて築かれるものだと、ユウナは頭の片隅で考えていた。だから、両親から受け継いだ能力を人のために役立て、魔族の脅威を払い、一人でも多くの人を助けられたらと思った。 そうして、誰かを幸せに出来たら……。自分が平和な幸せを手に入れられなくても、報われる気がしていた。 でも、冒険者としての道を選んだユウナは今、自分はとても幸せだと思う。 苦労は尽きない旅路だけれど、グエンとサーラという、かけがえのない大切な仲間を得たことは、声高らかに張り上げて宣言しても良いくらいの幸せだった。 一番傍にいて、誰よりも心を配ってくれる優しい人たち。 希望が少ないこの世界で、そんな二人に出会えた奇跡と幸せを前にすれば、ユウナは絶対にこの二人を失くせない。 何があっても、守るから。離れないから。 グエンの背中とサーラの横顔に視線を走らせて、ユウナが心の内側で決意を固めれば、この町の冒険者ギルドの看板が――四つの大陸と中央に一つの島を並べた世界地図を模した図柄を冒険者ギルドの象徴にしていた――薄暗い路地の手前で小さく揺れているのが目に入ってきた。 * * * 冒険者ギルドと呼ばれる組織が、いつの頃から存在するのか、正確な歴史はわからない。 幾度もの〈ゼロの災厄〉によって、人の歴史は無へと返った。当たり前のことも、人の知識から失せた。 冒険者学校も、冒険者ギルドも、設立やその存在目的は誰もが知っている。しかし、その細やかな成り立ちを知る者は少ない。 ただ、冒険者学校は〈ゼロの災厄〉に対する冒険者を輩出し、冒険者ギルドは世に出た冒険者たちを支援する。その習慣は今も続いている。 魔族を退治しその証をギルドに提示すると、報奨金が支給される。それが冒険者たちの旅の資金になる。 また、各地から集まる魔族の情報を冒険者たちに流すのも、ギルドの役割の一つだった。 大きな町には、冒険者ギルドが一つは必ずある。冒険者学校と冒険者ギルド、この二つの組織は実際のところ、魔族の標的になりやすい。 厄介な敵になりかねない冒険者たちを育てる学校も、冒険者たちを支援するギルドも、魔族にすれば未然に潰しておきたい存在だ。 だから場所によって――ギルドを預かる人間の裁量によって――ギルドは目立たない位置に置かれている場合もあった。この町はその例に当てはまるらしい。それでも冒険者が迷わないように、看板が道案内を果たしてくれる。 グエンは看板が指し示す道標にしたがって、薄暗い路地へと入った。 道幅が極端に狭くなり、両端に立つ建物の影で陽光は遮られた。日陰特有のひんやりした空気が頬を撫で、じめじめしたかび臭い匂いが微かに鼻腔を突いた。 雨を流すために道端に掘られた側溝に、溜まった雨水が澱んでいるのか。 珍しくもない匂いだったけれど、何故か、グエンの神経に触った。それは剣士として鍛え上げた本能か、それとも。 靴音を鳴らしながら――ここで足音をひそめてしまっては、ユウナを不安がらせる――グエンは腰に携えた剣の柄を、手袋に包んだ右手でそれとなく触れる。 瞬間――ヒュッと空気を割く音がした。刹那、グエンは抜き払った剣で投げつけられた二本の短剣を叩き落していた。 「グエンさんっ!」 ユウナが声を荒げるのを目線で振り返ると、サーラが少年の手を引く。強引に引っ張られた小さな身体は、サーラの影に隠れる。 それを確認すると、 「ユウナちゃんを頼むよ、姫」 一言残して、グエンはブーツの底を地面に蹴りつけて、走り出す。 「言われるまでもありません」 背中にサーラの無感動な声が聞こえた。 短剣が投げられたであろう軌跡を辿って、一直線に向かう先は路地の行き止まりに佇む建物。暗く開いた入り口を前にして、グエンはもう一度、靴底で石畳を蹴った。 今度は上へ、身体を跳ね上げる。 人間離れした跳躍で、一階の屋根部分に移動するとそのまま、開いていた窓枠を飛び越えて室内へと踊りこんだ。 * * * 何が起こったのか、直ぐにはわからなかった。 カシャンという金属音が、石畳の上に転がった。そちらに杏色の瞳を差し向ければ、二本の短剣が地面の上を滑るように回転している。 それを目に留めて、ユウナは初めて、襲撃を理解した。 視線を短剣からグエンへと引っ張り上げれば、白刃を構える剣士の姿があった。 「グエンさんっ!」 どこからこの襲撃が来たのか、その背中に問いかけようとした瞬間、ユウナはサーラに手を引かれた。 不意なことに、ユウナは踏ん張りきれずになすがままに引っ張られてしまう。 そうして、気がつけばサーラの背に庇われている。 「ユウナちゃんを頼むよ、姫」 グエンの声が遠ざかると、サーラの声が告げた。 「言われるまでもありません――<不落の要塞>」 魔法呪文を唱えて、サーラは結界魔法を敷いた。彼女の抑揚のない声が辺りに浸透すると、かび臭かった匂いが消えた。それで周りから隔絶された空間を認識する。 魔力はさほど使用していない。ごく薄い防御結界。 「……サーラさん」 そっと声をかければ、白銀の髪を微かに揺らして、サーラの薄紫色の瞳が肩越しにこちらを見つめてきた。 「暫し、様子を見ましょう」 突然の襲撃を前にしても、一欠けらも動揺していない声でサーラは言った。 「はい」 ユウナは神妙に頷く。人気のない通りに入ったとはいえ、こんな町中で魔法を放つわけにはいかないのだ。ここはグエンに任せるしかない。 それでも、直ぐに対応できるように、ユウナは背中に背負っていたリュックを下ろした。リュックの中には小さな球体がこれでもかというくらい、沢山収められている。 それは実戦において、緊張感から魔法の組み立て方を忘れてしまうユウナの欠点を補う魔弾と言うアイテムだった。 このアイテムの中に、ユウナは魔法を――何事もない場合では、ユウナは優秀な黒魔法師なので、魔弾の中にある魔法は他の魔法師が作り出す魔法より、遥かに質の高いものである――閉じ込めていた。 魔法師なのに魔法を満足に扱えない。そんな未熟な部分を何とか補おうとして考えた、ユウナの苦肉の策だった。 この欠点を冒険者学校の講師が知ったとき、冒険者の道は諦めろと言われた。それでも諦め切れなかったユウナを、グエンとサーラは仲間と認めてくれたのだ。 大切な二人の足手まといにだけは、なりたくない――今の段階では、やはり自分の未熟さを痛感して止まないけれど――そう、気持ちだけは強く願う。 諦めてしまったら全てが終わりだということを知っているから、ユウナは願い、それを叶えようと努力する。それしか、自分には出来ることがない。 二人と共に歩いていこうと思うなら、挫けずに強くなるしかない。 ギュッと手のひらの中で、魔弾を握り締めてユウナは顔を上げた。 と、グエンが飛び込んだ先の窓から、人影が飛び出して――正確に表現するなら、弾き出されたと言った方が正しいのかもしれない――ユウナたちの目の前に落ちてきた。 一瞬、グエンかと思った。体型がよく似ていたのだ。だが、長めの髪は薄暗い通りでも、微かな光りを見て取れた。グエンの黒髪とは違う。 その人影は受身を取っていたのだろうか。高い場所から落ちた衝撃に咳き込みながらも、片腕を張って上体を起こそうとした。 けれど、人影を追うようにして二階から飛び出してきたグエンが地面に着地したと思った半瞬後には、彼の固いブーツの靴底に人影は組み伏せられていた。 「――いきなり短剣を投げつけるってのは、何のつもりだ、テメェ」 声を低く押し殺しながら、乱暴な口調でグエンは足元に踏みつけた人影を藍色の瞳で睥睨した。いつもの快活で人の良さそうなグエンとは、別人のような顔を見せる。 恐らくは、相手を威圧する意図からの芝居なのだと思う――グエンは時に芝居がかった言動を取ることが多いから。 それでも、もしかしたら自分が知らないだけで、彼の中にはこういった冷たい一面があるのではないかと、ユウナが思考をちらつかせていると、グエンの表情が僅かに崩れた。 「――お前、ジェンナ?」 上ずった声音で問いかけ、驚いたようにグエンが目を見開けば、彼のブーツで胸元を踏みつけられたその人影は、片手を軽く持ち上げた。 「――よう。相変わらず強いな、グエン」 |