― 6 ― カサリと、枯れた草が乾いた音を奏でた。 グエンが音に目を向ければ、紫紺の夜闇を背に星明りを受けて佇む女神の姿。白銀の髪を煌々と輝かせるサーラに、グエンは藍色の瞳を眩しげに細めた。 眉唾物の神々の伝説を引っ張り出すほどに、神秘的なまでに美しい彼女の姿は、常日頃から見慣れているとはいえ、心が震えるほどに感動する。 絶望という名の暗闇に生きていたならば、出会えることはなかった奇跡を実感させるのだ。 陶然と見惚れているグエンの前に、サーラはいつものように無表情で近寄ってきた。 見張り番と称して、山肌に突き出した岩に腰掛けていたグエンの前で、サーラは立ち止ると薄紫色の瞳をこちらへと向けて口を開いた。 「貴方は、あの男をどこまで信用していますか?」 前置きもなく問いかけられた質問に、グエンは唇の端を緩めた。彼女の慧眼には、いつも驚かされる。 グエンがジェンナに対して、信用出来ないでいる胸の内を、その薄紫色の瞳は見透かしているようだ。 グエンはサーラがやって来た方向に一旦、目を向けた。すると、サーラが見越したように、二人は眠っていると告げた。 「姫は? ジェンナを信用していいと思っている?」 問い返しながらグエンは、幾ら眠っているとはいえ、ユウナをジェンナと二人きりにして良いものか? と、一瞬考えた。 しかし、サーラのことだから、その辺りはぬかりないだろう。彼女の声は二人に聞こえぬようにと、声をひそめることもしなかったから。 ジェンナの夕食に眠り薬を盛っていたとしても、驚かない――眠り薬や痺れ薬は一応の装備品として、常備している。 横に思考をそらしていると、サーラが端的に言ってきた。 「貴方と同じくらい信用できません」 「…………お、俺は信用してよ」 そんなことだろうと思っていたが、実際に言葉にされると辛い。視界が涙で濡れそうになるくらい辛い。 グエンが哀願の態で訴えれば、冷淡な声が返ってくる。 「何を根拠に、貴方を信用すればよいのですか?」 「姫への、溢れんばかりのこの愛でっ!」 「そんな迷惑な愛は、欠片にも要りません」 両手を広げるようにして愛を告白すれば、冷然と、言葉のナイフで木っ端微塵に切り刻まれた。 ――痛いっ! 痛すぎる。ここは冗談にして、笑って欲しいところなのにっ! ガックリとうなだれるグエンを前に、サーラは表情一つ崩さない。 まるで、何事もなかったかのように淡々と続ける。 「あの男は信用に値しない――貴方もそう考えている。なのに、あの男の言葉に従ったのは、何を企んでのことですか?」 「企むって、人聞きの悪いこと言わないでよ。俺はただ、姫と一緒だよ」 「…………私と何が一緒だと言うのです」 同列に並ぶのが嫌だとでも言うように、サーラは目を眇めた。 出会った当初は、表情が殆ど変わることがなかった彼女だが、最近は少しだけど表情が目に見えるようになってきた。 それはきっと、ユウナの存在が大きいだろう。 確実にユウナとサーラの距離は縮まりつつある。そうして、サーラとグエンの距離は広がりつつある。 (…………置いていかないで) そう取りすがりたいところだが、そんなことをすれば嫌われるのは必至だろう。 グエンとしては、大人の余裕ある態度で二人を包容しているように見せているが――見えているのか? ――その実、いつ二人に切られるかと考えると、気が気じゃなかったりする。 それはこの場合、横に置いておいて。 「姫がジェンナを警戒しながらも、この計画に乗ったのはユウナちゃんのためでしょ?」 グエンが答えを紡げば、サーラは柳眉を顰め、眉間に微かな皺を寄せた。 お人好しのユウナは困っている人間を、何もしないうちから切り捨てるような少年ではなかった。 自分たちの手に余る解決出来ない問題でも、一緒に悩んで、一緒に戦おうとする。 生真面目で一途な少年の前に、魔族で苦しんでいる人間たちがいると話せば、ユウナとしてはジッとしていられなくなる。 ジェンナは、相談相手には格好の獲物を釣り上げたと言っていい。 今現在、ジェンナの口車に乗って魔族退治に出向こうとしている自分たちがここにいるのだから。 「……まあ、前みたいに一人で突っ走ったりしないと思うけどね」 グエンはそっと、苦笑した。 冒険の旅を始めたばかりの頃、ユウナは魔族に苦しめられているという村を救うために一人で暴走したことがあった。 それは魔族を騙る人間たちの仕業で、グエンとサーラはそれを見抜いていたけれど。ユウナは苦しんでいる人たちがいるという、それだけに思考を奪われて、止めるこちらの話を聞かずに飛び出したのだ。 あの時の苦い経験は、ユウナの中に確実に刻まれて、成長の糧となっている。 「それでも、ユウナちゃんは真偽のほどがわかるまでは、気を病むだろうね」 「ユウナは優しすぎるのです」 サーラがポツリと呟きをこぼす。夜の静寂に落ちていくその音色を見送るように、彼女は長い睫を伏せた。 そう言う彼女も、ユウナに負けず劣らず優しい。ただユウナと違って、甘えには厳しいから他人に誤解されてしまうのだけれど。 「あの男の話は、本当だと思いますか?」 感傷に浸ることなく、サーラは視線を上げると話を元に戻す。グエンは無言で頷いて、眼下に広がる町並みに横顔を向けた。 「ジェンナが言っていた話の半分は、この街を見ていたら本当だってわかるよ」 先日、ギルドでジェンナと交わした会話は、次のような内容だった。 『――魔族に乗っ取られた国があるんだ。その国は四方を山に取り囲まれていて、天然の要塞都市みたいになっていたんだが。要所を押さえれば、国の中に侵入することは難しい感じの国でさ、この二百年、平和だったらしいんだけど』 『……空からは?』 魔族の中には翼を持つ魔翼鳥がいる。魔翼鳥自体は大した敵ではないが、それを手なずけた魔人は厄介な相手だ。 空を自由に駆ける敵を相手に出来るのは射手か魔法師。とにかく地上に引き摺り下ろさねば、どんなに剣術に優れたグエンでも倒すのには難しい。 『それが、その国の盲点だったわけさ。魔族に空から襲われて、あっけなく陥落。王族や騎士たちは見せしめに殺された』 ジェンナは唇に薄笑いを浮かべたまま、肩を竦めた。 自分が語っていることの内容に何一つの感慨もないらしい。 冒険者という職業もあくまで、仕事の一つ――生活を支える手段であって、人助けをしようなどという崇高な志は、ジェンナにはないのが一目瞭然だった。 ただ、自分が困っているときは、人の手助けを当てにする。図々しさもここまでくれば、呆れる以外にない。 そんなジェンナに比べて、ユウナの表情は喉を突いてくる言葉を留めようとするかのように、花びらのような唇に白い歯を噛ませていた。 藍色の瞳にユウナを映して、グエンはジェンナに問いかけた。 『敵の数は?』 『魔人と、奴が飼っている魔翼鳥が一匹』 『一人で国を掌握しているって言うのか?』 グエンは驚きにジェンナを振り返った。村一つ、町一つと言うのなら、話しもわかるが。 ……国と言っても、小さい国なのか? 訝しげに目を眇めれば、ジェンナは顎を上にそらした。酷薄に歪む冷笑にあわせて、頬に咲いた黒い花の刺青が歪む。 『人間を私兵にしたんだよ、その魔人は。一部の人間を懐柔したのさ。そして、同じ人間どもを監視させた。傑作だろ』 ――何処が? 私兵になった人間は自ら魔人に降伏したのかもしれない。もしくは、家族などを人質にとられたのかもしれない。 どちらにしろ、魔族の圧倒的な能力を見せ付けられて、反抗する気力もなくなった。 最初に王族や騎士たちが殺されたのは、反抗した者の末路を見せ付けるためだったのだろう。誰もが自らの命を惜しめば、魔人の飼い犬になることも一つの選択肢だ。 極限に置かれた人間が、苦渋の末に選んだ茨の道を嘲笑するジェンナの悪趣味さに、嫌悪が先立つ。 だが、敵はジェンナではなく魔人だ。情報源がどれだけ信用出来るかといえば、信用する気にもならなかったけれど。 ユウナの泣きそうな顔を見ていたら――実際に、傷ついている人間がいるのかどうかもわからない状況なのに、心を痛める少年だから、絶対に秘密を教えることは出来ない――グエンの考えは決まっていた。 そうして、サーラに目を向ければ、薄紫色の瞳が了承を示すように瞬いた。 『わかった、その話に乗るよ』 そうグエンが答える鼻先で、ジェンナの狡猾そうな土色の瞳が暗く煌めくのを見逃さなかった。 (…………何かを、企んでそうなんだよな) グエンはジェンナに対する違和感を抱えたまま、回想を打ち切り、四方を山で取り囲まれた国を眼下にした。 国と言っても、やはり大した大きさではなかった。人口が四、五万、存在するかというところだろうか。 三方向の山は急峻な岩肌が剥き出しで、とても人が出入り出来るような感じではなかった。天然の要塞と言ったジェンナの言葉を、ここに来て納得する。 現時点の状況では、ジェンナは嘘を言っていない。 先程、サーラに返した言葉が示すとおり、半分は本当だ。後の半分はまだ確認できていないのが、痛いところだ。 現在、グエンたちが身を潜めているこの山への侵入経路を押さえれば、この国への侵入はなかなかに難しい。そして、恐らくは出ることも。 要塞は檻に変わったのだろうか? 魔人の配下に下った私兵が監視する檻へと。 ひっそりと夜闇の中に横たわる街並みは、深い水底に沈めたかのようだった。街を覆う水面は紫紺の闇を映して、さらに暗く。黒く。 星明りがなければ、街並みは漆黒に塗りつぶされていただろう。星影が陰影を作り出すことで、そこに街があるのがわかった。 水の膜に閉ざされたかのような印象は、街並みから生者の気配が感じないせいか。 そこには人が生きているはずなのに、生活の営みというものが感じられない。明かりも全て消して眠っている――というより、息を潜めていると言ったところが正しい。 この静寂を打ち破れば、全てが壊れてしまうかのように。 ただただ、夜が明けるのを待っているようだ――この夜陰に乗じて街に侵入することを考えたが、人が起きている昼間の方が紛れやすいと言う、ジェンナの言葉に従って、グエンたちが明けるのを待っているように。 ――闇に質量を感じる。まとわり付くような、忌まわしさ。 錯覚だろうが、重たい。 夜が、ズシリと圧し掛かってくる。 グエンは視界が黒く染まるような感覚に襲われて、目を瞑った。 ――闇が、過去を引き連れてやって来る……。 暗い闇の底。 檻に閉ざされたそこに、奴はやって来た。 膝を抱えて震えるこちらにお構いなしに、皮膚をざらついた刃でなぞる。 わざと錆びた刃で、斬るというより削って、刃は身体の内側に入り込んでくる。引き裂かれた肉、強引に千切られた血管。傷口からじわりとあふれ出す体温――赤い血。凍る指先。 叫べば、嗜虐趣味の奴を喜ばせることを知っているから、奥歯を噛んで堪えた。 こちらが悲鳴を上げ、苦痛に転げる回る様が奴には面白くて堪らなかったらしい。 檻の中に捕らえられた人間が一人ひとり減っていき、最後にグエンだけが残された。 汚れた血を持ってしまったが故に、傷は痛みだけを残しながら、癒えていく。 壊れる心配のない玩具は、奴のお気に入りの一つになって、毎夜グエンを襲う。 滴る血液に濡れた床に這い蹲れば、手のひらに刃を打ち付けられた。魔族の力が加わったそれは、簡単に骨を砕いて石造りの冷たい床に、グエンの右手を縫い付けた。 そうしたところを、靴の爪先が床とグエンの身体に間に割り込んで、小さな身体を蹴り上げた。 右手のひらは二つに裂かれて、刃と僅かな肉片を床に残したまま、グエンの身体は天井へと飛び、重力に引かれて再び床に叩きつけられる。 身体中で骨が砕ける鈍い音に、堪えていた絶叫を吐き出そうとしたところで――。 「――グエン」 名を呼ぶ声にグエンの意識は、現在へと引き戻された。 過去から呼び戻してくれたのは、玲瓏たる声。 弾かれたように目を見開くと、白い人影が霞んで見える。 やがて、朧な像がしっかりと形を成した。それは紫色の瞳に星影を映して、静かにこちらを見下ろす麗しき女神の姿。 「――――姫?」 確認するように吐いた声に返るサーラの眼差しは無感情で、こちらを見下ろす視線も冷たかった。 なのに、ホッとした。 「――ああ、ゴメン。……何でもないよ」 そう言いながら、グエンは唇の端を引き上げた。明るい笑顔を心がけて、サーラに笑いかける。 すると、どこまでも冷淡な声が返ってきた。 「何でもないと言うのでしたら、何でもないという顔をしていてください」 「えっ?」 「そんな顔をしていれば、ユウナが気にします」 そんな顔と言われて、グエンは己が面に指を這わせた。指先には、しっとりと濡れた感触。 「……俺、泣いて?」 瞬くと、睫から雫がこぼれた。頬を伝う温度差に、グエン自身が驚いた。 「…………貴方が何を思い出し、何に涙したのか、私は知りませんし。聞くつもりもありません」 素っ気ない声が、不思議とグエンの心を温めてくれた。 過去に関しては、同情して欲しいとは思わない。過去に留まらないと決めたから。 サーラの無関心さは、そんなグエンの決意を受け入れてくれたように思えたのだ――それは、独りよがりなのかもしれないけれど。 ゆっくりと目を閉じて、一息吐く。そして、瞼を持ち上げ背筋を伸ばし、サーラを見つめ返した。声が震えていないことを祈りながら、告げた。 「……俺も話す気はないよ」 サーラに話した秘密以上のことを、語る気はなかった。魔族に痛めつけられた日々の話など、聞いたところで全ては過去のことなのだから。 今さら、それを聞かされたところで、何かが変えられるわけでもない。 「ユウナちゃんにも話さない。それは、前から決めていることだよ」 過去のことだとグエンが割り切っていても、ユウナはきっと心を痛める。そういう子だと、知っているから話せない。 「貴方の決意なんて、私には関係ありません」 サーラは歩み寄ろうとするこちらを牽制するように、切り捨てた。そうして、凛然と言い放つ。 「ですが、ユウナを傷つける者は、何人たりとも許しはしません」 その声は暗い夜の静寂を切り裂いて、一つの迷いもないように揺るがなく響く。 グエンは笑った。笑うことを意識する前に、笑っていた。 彼女の強さ。そして思いが同じであることが嬉しい。 「うん。それは俺も同じだよ」 顎を上に向けて、グエンは自分の中に存在する闇に決して負けはしないと、挑むように夜空を見上げた。 あの日から、決めていたことだ。 ――守りたい人が出来た。助けたい人が出来た。 その人たちの力になりたいと思って、剣を握ったときから、この気持ちは変わらない。 だから、ジェンナが何を企んでいようと、ユウナとサーラを守ってみせようと。 どこまでも果てしなく広がる天を藍色の瞳に宿して、決意を固めた。 圧倒されそうな紫紺の闇の中にも、光がある。そのことをグエンは知っている。 もう昔とは違う。泣くだけしか出来なかった、自分とは違うんだ。 |