― 7 ― 首の後ろで一つに束ねられた赤い髪が、グエンの目を引いた。 まるで炎のようだと思った印象は、あながち外れてはいなかっただろう。彼女は「紅蓮のカレナ」と呼ばれていたのだから。 ジスタの妻だと名乗ったカレナは、意志の強そうな眉の下、橙色の瞳でこちらを見下ろして来た。 光を受けると金色にも見える瞳は、ガイナンと同じように鋭く。少しだけ、気後れしてグエンは後ずさりした。 そんなグエンの背中に手を当てて、ジスタがカレナに笑いかける。 『ただいま。奥さん』 『ああ。無事で何よりだった。それで、その子は?』 『グエン君だよ』 カレナの問いかけに、ジスタはグエンの名を一言、唇にのせた。そうして、ニコニコと笑っている。 二の句を継ぐ気配のないジスタに、グエンは目を丸くした。 名前だけで説明した気になっているなんて、この人は何を考えているのだ? と驚く。 しかしてカレナは、ふむ、と唸った。 猫の目のような丸っこい目で――だけど、眼光は肉食獣のように鋭く――グエンを見下ろすと呟いた。 『青だな』 『あ、やっぱり、そう思うよね』 『ああ、青が似合うな』 主語を排して、二人は頷きあった。何が何だか、わからない。困惑に視線を彷徨わせていると、同行していたガイナンもまた、片目を眇めるようにしてジスタとカレナの夫婦を見ていた。 『少し待っていろ』 カレナはそう言い残すと、ギャザーたっぷりのふんわりとしたスカートの裾を揺らし、踵を返して傍らの部屋へと消えていった。 ――何? 戸惑うグエンの頭上で、ガイナンがジスタに話しかける。 『オイオイ。ホントに寛大なんだな、アンタの奥さん。こいつが隠し子かも知れないって、疑いもしないのかよ?』 『どうして、疑われるの。僕は奥さん、一筋なんだよ』 『っていうか、疑われないって言うのも、ちょっと虚しくないか?』 『何で?』 『そんな意気地もないって、思われているんじゃねぇ?』 『酷いな、ガイナンは。何度も言うように、僕は奥さん一筋なんだよ。それを良く知っているから、疑う必要もないの。わかった?』 苦笑をピンク色の唇に浮かべて、ジスタはガイナンを睨んだ。 若葉色の瞳には棘はなく、夫婦仲を自慢するように煌めいていた。 やがて、カレナの声が届く。響かせれば、どこまでも伸びやかに奏でるだろうその音色を、短く切る声は無愛想なまでに簡素だった。 『グエン――こっちへ』 声がした方に目を向けると、背中に置かれていたジスタの手がグエンを押した。 『行っておいで』 一歩前に出た反動で、さらに半歩。身体が動けば、自然と足が歩みを刻んでいた。引き寄せられるように、カレナが消えた部屋へと近づく。 分厚い布を戸板代わりにして、部屋は居間と仕切られていた。 ジスタの家は村から外れた小高い丘の上に一軒、建っていた。庭には守護者のような大樹が一本。 まるで世間と隔てるような距離を置いて存在していた木造の家は、居間と台所と部屋が三つと、なかなかの広さだった。 ただ、魔王を倒した勇者にしては、簡素で地味な家だと思う。ジスタとカレナがこの西の大陸を解放した――まだ、魔族は居残っているが。魔王討伐により、冒険者の方が優勢になりつつある昨今の――功績を考えれば、大きな屋敷を貰っていてもおかしくはないだろう。 それなのに、隣の部屋の話し声がそのまま届きそうなこの家は、こぢんまりとしている。家の傍らに作られていた野菜畑や花壇。洗濯物が風にはためく庭先も。 ジスタらしいと言えば、らしいかもしれない。彼にはお城と言うより、土や緑の匂いが間近に感じられるこの場所が良く似合う。 ぼくとつとした彼の柔らかな雰囲気が、そう感じさせる。 仕切り布の隙間からグエンが部屋の中を覗けば、次の瞬間、腕を捕まれ引っ張り込まれた。 頬が柔らかい何かにぶつかった。 それがカレナのふくよかな胸だと気付いて、グエンは硬直した。母親以外の女性の胸に触れるなんて、初めてのことだ。八歳にもなれば、それが子供でも容易に許されないことを本能で知っている。 頭が真っ白になって、慌てて離れようとするが身体はカレナに完全に依存していた。距離を取ろうとするならば、彼女の身体に触れて反動をつけなければならない。 それもまた困った。どうしたらいいんだろう? 戸惑っているグエンに構うことなく、カレナの手はグエンが身に纏っていたダブダブの服に掛かった。一気に引っ張り上げられ、驚く間もなく、上半身を裸にさせられた。 ひやりとした空気に、身体が反射的に縮こまる。 『――なっ』 ようやく驚きの声を発したその瞬間、視界が塞がれた。 肌を舐めていく柔らかい感触に目を剥けば、グエンの身体を青い布地が包んでいた。立ち上る石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。 『ああ、やっぱり。グエンの瞳には青が似合うな』 呆然と佇むグエンを前に、カレナは顎に手を当てると、したり顔で頷いていた。 彼女の傍らには衣装箱があり、中に納められていたと思われる服が、床のあちらこちらに散らばっている。ジスタの服だろうか。 グエンの身体をすっぽりと包んだ青色のシャツの袖は長く、膝の辺りまであった。 服を着替えさせられたのだと理解したときには、カレナの手が青い服の袖を捲って、グエンの右腕に伸びていた。 カレナの指先が、ひきつれた皮膚に触れる。腕に浮かび上がった火傷の痕を、橙色の瞳が見つめれば、彼女は囁くような声音で呟く。 『……痛いな』 とても悲しげに響いた声に、グエンはカレナに向かって初めて言葉を口にした。 『……もう……痛くない』 その火傷はサルダに捕らえられた時に付けられた、奴隷としての刻印だった。 サルダに捕まった者たちは皆、焼いた鎖を手首から肘の手前にかけて巻かれた。皮膚を焦がし、肉を焼いて、残された火傷は奴隷の印となった。 もう二年前になるだろうか。 この古傷だけは、どんな傷もたちどころに治してしまう治癒力が、この身に付いてからも、癒えることがない。細胞がこの傷痕を覚えているのだろう。 それはグエンが人間だったことを証明する、ただ一つの証として残っている。 『……ずっと、昔に付けられたものだから』 言い訳するように述べて、カレナを見上げる。 怖いと思っていた橙色の瞳は、陰を抱えて微かに揺らいでいた。その揺らぎが、グエンの胸をキリキリと締め付け、切なくさせた。 彼女が悲しげにしているのが、自分のせいだと気付いたから。 冒険者であるという彼女なら、この火傷の痕が示す事柄を知っているのだろう。 汚れた自分に注がれる眼差しの優しさが、居たたまれなかった。 目を伏せようとするグエンの視界で、カレナのラインがくっきりとした赤い唇が――化粧気などなく、紅を塗っているわけでもないのに――歪んで問いかけてきた。 『でも、心は痛いだろ?』 『……えっ?』 『傷は、心にも痛いんだ。違うか?』 『…………』 『痛いことは、痛いと言っていいんだ』 傷は痛くなんてなかった。それは痕だけを残しているだけなんだから。 でも、鎖を巻かれた瞬間を思い出せば、心が悲鳴を上げた。 『……痛い』 自然と喉を突いてきた言葉に、カレナが頷く。 『痛いよ……』 弱音をこぼすと、涙が溢れた。 睫にたまった雫が重力に引かれて、床に落ちる。木材を敷いた床に点々と描かれる黒い染み。それはこの身体から滴り落ちた血を思い出させ、グエンの頭の中を様々な思考が錯綜する。 人とは違う――違う人種になってしまったことを、グエンは自覚していた。 引き裂かれた肉が、粉々に砕かれた骨が、瞬く間に治るなんてことは、そんなことは普通の人間には起らない。 だけど、グエンの身体は死に至りかねない重度の傷も、瞬時に治す。 それは魔族のように。 人間だった。なのに、今は人間とは言いきれない。 こんな自分がこの世に存在していいのか? 不安が、涙という形に変わって、身体の内側から溢れてくる。 『……グエン。その痛みに目を瞑るな。痛みがあるのなら、お前はまだ生きている。生きているなら、幸せにだってなれる』 カレナの声が語るそれに目を上げる。 橙色の瞳が間近にあって、やがてグエンの身体を抱きかかえる腕があった。優しい体温が震える身体を包んだ。 『……だから、生きることを諦めるな。私たちが、お前の助けになるから』 夫婦揃って、同じことを言っている。 ジスタとカレナは、全然違うように見えて、似たもの同士なのだとわかった。どうしようもなく、お人好しなんだ。 わけのわからない子供を、簡単に懐の中に抱え込んで。 ……でも、それでも。 二人の優しさが、同情だとしても。 今だけは、縋っても良いだろうか? 請うように視線を上げれば、カレナの肩越しにジスタがいた。優しい目をして、こちらを見下ろす彼の腕の中には、小さくも可憐な花が咲いていた。 * * * カサリと乾いた草の音に意識を引かれたのは、グエンだけではなかった。 耳に入り込んできたその音に、ユウナは浅い眠りから目を覚ました。そっと、片肘をついて上半身を起こせば、隣に眠っていたサーラの姿が消えている。 彼女が被っていた毛布が、まるで抜け殻のように手を伸ばした先にある。指に触れれば、まだほんのりと温かい。 ゆっくりと視線を巡らせれば、少し向こうに白い光が流れた――その光は、星明りを受けたサーラの白銀の髪なのだろう。 光が向かった先には、グエンが見張りをしている。 (……サーラさん?) グエンに話でも、あるのだろうか。 普段は仲が良くない感じのサーラとグエンであるが、時折、二人で話しているところを見かける。美男美女の立ち絵は実に様になっていた。そんな二人を傍から見つめたとき、ユウナは一人置いていかれた寂しさを覚えてしまう。 話していることは、きっとこれからのことなのだろう。二人で今後のことを相談するのかもしれない。 そこに自分がまじれないのは、何も発言することが出来ないからだということを、ユウナは知っている。 何をどうすればいいのか、わからない。ただ、困っている人がいるのなら、助けたい。その思考にだけ支配されて、先の先を見越せない自分には作戦も戦略も何もない。 だから、サーラもユウナには声をかけなかったのだろう。 (……わかっている) 自分の頼りなさをわかっている。自覚している。それでも、寂しく思う自分が情けなくなってくる。 唇を噛んで、ユウナは再び身体を横たえた。敷いた薄布の下から、乾いた草と土の匂いがする。感覚は完全に覚醒していた。 髪を撫でていく微かな空気の流れも、自分の内側に流れる血の音も聞き取れるぐらいに。 ――眠ってしまおう。 明日、二人の足手まといだけにはならないように、しっかりと身体を休めて。これまでの道中の疲れを取っておかないと。 そう心に言い聞かせて、毛布を頭から被ろうとしたところで、サーラの冷ややかな声が途切れ途切れながらに、こちらへ届いた。 それはサーラがグエンに、ジェンナに対する不信を追求するものだった。 ユウナは思わず、ジェンナを振り返った。 焚き火跡の向こうに――火を使っているときは、用心のためにサーラが目隠しの魔法を周囲に敷いた。今現在は、火も消され、魔法も解かれている――ジェンナが眠っている。 彼の耳にサーラの声が届くのではないかと冷や冷やして、ユウナはジェンナの寝息に耳を澄ました。 一定のリズムで繰り返される呼気と吸気。 (……眠っている) と、思う。 起きていれば、今のユウナと同じように、息を潜めたりしているところだろう。そうすれば必然と呼吸のリズムは崩れ、わかる――と、思うのだ。 ……自信はないけど。 実際、サーラとグエンの声は自らの呼吸や心拍に邪魔をされて、その会話を完全に把握することは出来ない。その声に耳を傾けようとするなら、息を止めなければ。 だから、グエンの返事は聞こえなかった。彼が、昔馴染みをどう思っているのかを。 でも、ユウナはサーラと同じように、ジェンナに対してあまり良い感じを抱いてはいなかった。 ここへと来る道中の六日。彼は軽薄なまでに薄っぺらな軽口を叩きながら、ユウナたち一行を先導した。ユウナもまた何度となく、ジェンナと会話を交わした。 女性のこととか、昔にやったイタズラとか。他愛もない――中身なんて何もないと思われるような話。 そうして、二人きりになったときにジェンナが発した言葉が、今もユウナ中にわだかまっている。 唇に薄笑いを貼り付けて、彼はこちらを試すように土色の瞳を細めて問いかけてきた、それが。 『――なあ、グエンの過去について知りたくない?』 |