トップへ  本棚へ



 ― 10 ―


 ぽたりぽたりと。雫が滴る音がした。
 その音に耳を傾ければ、狭間で泣き声が聞こえる。それは、子供の声だ。
 雫の音は、涙が落ちた音なのだろうか? 
 ひくりひくりと。嗚咽がまじる。
 やがて、小さくなっていく声。しかし、音が消えたと思った瞬間、爆発するようかのように、声が弾けた。
 寂しいというより、不安でどうしようもないと。その泣き声は、言葉にならない叫びに震えていた。
 ――助けて、誰か、助けて。
 喉を張り裂かんばかりの勢いで泣きじゃくる声に、別の声が重なる。
『大丈夫だよ、……もう泣かないで。俺が何があっても、守ってあげるから』
 静かに――だけど、強い決意をのせたその声は――。
 あの声は……誰のものだっただろう?
 泣いていたのは、誰?
 慰めていたのは、誰?
 ――助けてって、誰を?
 疑問が思考を占めた瞬間、意識が晴れた。
 瞼を開ければ、視界一杯に広がる青空に、ユウナは瞠目した。
(――ここは?)
 慌てて起き上がると、焚き火跡を囲む形でグエンにサーラ、そしてジェンナがいた。
「……あっ」
「お早う、ユウナちゃん。よく眠れた?」
 夢と現実の狭間で戸惑いを見せるユウナに、快活な笑顔でグエンが尋ねてきた。白い歯が眩しい。
「あっ、はい」
 反射的に頷いて声を吐き出すと、フワフワと浮遊していた意識が着地した。
 現在のこの場所、そして自分がこれから成すべきこと。そうしたものが、霧がかかったような思考の中で、明瞭になっていく。
「……お早うございます、グエンさん、サーラさん。……ジェンナさん」
 グエンとサーラに笑顔を差し向けて、ジェンナが視界に入ると、ユウナの頬は強張った。昨夜、グエンとサーラの会話を思い出したのだ。
 サーラがジェンナに不信の念を抱いているということを。
 結局、最初の方が聞こえた後、二人の声は次第に聞こえなくなった。こちらに届くのを気遣ったのかもしれない。
 聞き耳をたて会話に神経を集中させていたが、それも時間が過ぎていくにつれて糸は緩んだ。そうして、気がつけば今に至っているという。
 ユウナは寝起きを誤魔化すように、顔を撫でることでジェンナから視線をそらす。その一瞬、彼の土色の瞳が暗く澱んで見えた気がした。
「ユウナ――朝食です」
 サーラが、ジェンナとの間に割り込むようにして身を寄せてきた。そして、器に入ったスープとパンをこちらに手渡してくれた。
 野営では食事も簡単な保存食になる。干し肉で出汁をとったスープに、パンは日持ちがする分、ちょっと固い。
 ユウナはサーラから、それらを受け取る。かわりにサーラはユウナが被っていた毛布を拾うと小さく畳んだ。そして、ユウナの隣に腰を下ろした。
 どうやら三人は、既に食事を済ましているらしい。慌ててパンを口に放り込もうとするユウナを、グエンが笑って止めた。
「大丈夫だよ、ユウナちゃん。ゆっくり食べて。ただ、これから作戦の確認をするから話は聞いていてね?」
「あ、はい。ありがとうございます」
 ユウナはとりあえず、パンを口に運んだ。
「――それで、これからのことだけれど」
 グエンの横顔がジェンナへと向けられれば、彼の唇からこぼれる声は硬かった。ユウナに話しかけた声から、気安さや明るさは完全に削ぎ落とされている。まるで白刃のような硬質さ。
 これからのこととは、魔族とどう対峙するか、この国の人たちをどうやって救うか――という真剣な問題だ。
 だから、笑っていられる余裕なんてないのだ――と。
 グエンの真剣な眼差しに、彼の決意を見た気がした一瞬、ユウナは違和感を覚えた。
 ――違う。
 こういうときのグエンは、こちらの不安を払拭するように笑うのだ。
 今現在、ジェンナに向けられている鋭い視線は――警戒。
 それもあからさまなくらいの、警戒。
 ユウナは思わず、睫を瞬かせる。もっと驚くのは、ジェンナがそんな視線を受けても、動揺一つ見せないことだった。
 悪びれる必要などないからなのか、さらりと視線をグエンに返して、薄い唇に笑みを浮かべる。酷薄な微笑はジェンナの代名詞と言ってよいのではないだろうか。
「やる気満々だな」
「ここで、やる気をなくしても構わないのなら、それでもいいぜ」
 炯々たる眼光で睨みつけるグエンを前に、ジェンナは軽く肩をそびやかした。
「そりゃ困るな。本気でやってくれよ」
 助力を頼んだ立場にしては、上から見た口調。なのに、声には一欠けらの真剣さがない。
「お前の方こそ」
「オレはいつだって、本気だけど?」
「そうかよ。じゃあ、横道にそれずに話を進めてくれ」
「わかったよ。けど、もっと余裕を持とうぜ? そう根詰めていたら、疲れるんだからさー」
「…………」
「あー、はいはい。まずは二手に分かれる」
 グエンにひと睨みされると、ジェンナはへらへらと笑いながら肩を竦めた。そして、脱線した話を元に戻す。
「……人質を助けるのと、そのための囮役か?」
 低い声がグエンから吐き出された。
 人質という言葉に、ユウナは切羽詰った事情を見つけた気がした。
 ジェンナは魔族に懐柔されて、私兵になった人間を「傑作だろ」と、嘲笑していた。そんな彼に嫌悪を覚えてけれど、それ以上のことをユウナは考えなかった。
 あのときは、見せしめに殺された人たちがいたという話を聞いて、それだけに思考が占められた。
 誰も彼も、好きこのんで魔族に従属するはずはないのに。そこにある裏事情を、ユウナは見逃していた。
(――どうして、僕は……)
 表面の出来事だけしか、見ようとしないのだろう?
 既に自分は、笑顔の裏に隠した優しさを知っているはずなのに。決して、表に出さない秘めた決意を知っているのに。
 そっと唇を噛むユウナをまるで笑っているような――それは思い込みだと、ユウナは恥じる――声で、ジェンナが告げた。
「ご名答――と、言いたいところだけど。グエン、何か誤解してない?」
「誤解……?」
「人質なんて話、いつしたよ? それは昔の話だろ。今回のとは、違うぜ?」
「違うのか?」
 眉根に皺を寄せて疑問視するグエンの声に、ジェンナは鼻を鳴らした。
「違うよ。あんな危ない目にあって、同じ轍を踏む気はもうないよ。ゴメンだね」
「……あの魔族は、どうなった?」
 グエンが話しているのは、過去の話だろう。昔に何があったのか、ユウナにはわからない。だから、黙って耳を傾け、グエンの表情を見逃さないように心がけた。
 グエンもサーラも、ジェンナに対して警戒している。
 それを表に晒しながら、口には出さないのは、ここで仲違いが出来ないからだ。助けを求めている人々が実際にいるのなら、ジェンナからの情報は、真偽はともかく重要な手掛りとして聞き漏らせない。
 それをどう判断するかは、グエンとサーラの決断に任せるしかない。ただ、彼らが下した答えに、迅速に対応できるようにしたいと、ユウナは思う。
「さあね。どっかで、国でも作っているんじゃねぇの? オレとしては、奴にだけは関わりたくないね」
「…………」
 グエンは無言で、舌打ちした。そんな彼を土色の瞳で無感動に眺めると、ジェンナは薄笑いを浮かべたまま、頬の黒い花を撫でた。
「とりあえず、あの厄介な奴より今回はマシだろ。人質の安否なんて、気にしなくていいからさ」
「なら、戦力を分ける必要はないんじゃないか?」
「そう行きたいけど、私兵の相手をしなきゃならねぇじゃん」
「――私兵」
 呻くようにグエンが呟いた。
 人質がいないということは、魔族の手先になった人間は自ら進んで、私兵になったということだと、ユウナもまた理解した。それは人と戦うということになる。
 敵は魔族だけではないということ?
 身に迫ってくる現実に、ユウナはパンを喉に詰まらせそうになった。慌てて、ゴクンと息を飲み込む。
 喉を通って落ちていくパンの欠片は、まるでガラスの破片を飲み込んだかのように、胃に鈍い痛みを与えた。
 勿論、その痛みは実際にパンを飲み込んだことによって生じたものではなく、人間と戦わなければならないという現実に、胃が緊張に収縮したのだろう。
(そんな……だって、僕たち冒険者は戦えない人達の代わりに、魔族と戦う剣であるはずなのに……)
 それなのに、同じ人間と戦うのか?
 ユウナの困惑を余所に、ジェンナは話を進めていく。
「この国の現状に反発している奴と、“解放軍”とでも言っておくか? その手の輩と少し前から組んでいたんだ」
「……“解放軍”……」
「騎士の家族なんかは、魔族に反発が強い。まあ、王族への忠義が他の奴らより厚かったんだろ。魔族を倒して……なんて。そんなことを考えていたわけさ」
 薄い唇に酷薄な笑みを浮かべて、ジェンナは続けた。
「そこで、オレはそいつらに戦力を提供することにしたわけさ」
「それが――俺たちか」
「その通り。で、魔族を倒した暁には、報酬はオレたちが貰う。力を貸したわけだから、貰って当然だよな?」
「……」
 グエンが非難するように片目を細めれば、ジェンナはヒョイッと肩を竦めた。
 枯れ草色の髪が肩口で耳障りなざらついた音を奏で、非難される覚えはないと言いたげな態度を、不快に演出した。
「話を元に戻すけど、二手に分かれた片方は、こいつら“解放軍”と私兵を抑える。もう片方は、魔族の対決――という形で行きたいんだけど」
 ジェンナが、わかったか? と、問うように土色の瞳で一同を見回した。
 そうして、ユウナへと目線を差し向けてきた。
 真っ直ぐに射られる視線に、ユウナは戸惑う。その視線の意味は次の言葉で、理解できた。
「それで、“解放軍”と同行して私兵を抑える側にはお嬢ちゃんと――」
 ユウナを指名してきたのだ。
「私が行きます」
 さらに続けようとしたジェンナの声を遮って、サーラが割り込んだ。瞬間、彼は目を見開き、素っ頓狂な声を上げた。
「――はあっ? ちょっと待ってくれよ、お姫さん。この場合、オレだろ?」
 この場合とは、どういうことだろう?
「オレとグエンは剣士だぜ? 戦力的な分担を考えたら、魔法師のお嬢ちゃんとお姫さんが固まるのは、偏りすぎるだろ?」
 大口を開いて力説するジェンナの言い分は、なるほど、と納得させられた。
 より多くの敵に対する場合、ユウナの黒魔法の方が効果は大きい。だから、直々に指名されたようだ。そして、自分が同行しようとしたところで、サーラが割り込んできた。彼の計画とは違う方向へと流れていくのに、ジェンナは慌てたように立ち上がる。
 そんなジェンナをサーラは冷ややかな瞳で見上げ、
「――私がユウナに同行します」
 ただ、それだけを言い切った。
「グエン、お前からもこのお姫さんを説得してくれよ。お前だって、魔族相手にヤルんなら、オレなんかより魔法師の能力があったほうがいいだろ?」
 と言うジェンナは、端から魔族を相手にする気はなかったらしい。
 厄介な相手はグエンに任せようということか。そして、彼は今回の情報提供を盾にして、魔族討伐の報酬の分け前を貰う――それがジェンナの狙いか。
 昔馴染みと言って、グエンに声を掛けてきたときから、こちらを利用するつもりだった。
 どちらにしても、やはりジェンナは信用出来ない――と、ユウナは再確認した。
 だったら、なおさらジェンナをグエンと同行させて良いものだろうかと迷う。魔族を相手にする際、ジェンナがグエンの背中を守ることを期待するのは無理だろう。
 ならば、自分がグエンの傍にと思えば、今度はサーラがジェンナと同行することになる。サーラの守りの魔法があれば、一人でも大丈夫だろうが……。
(……嫌だ)
 ジェンナとサーラが二人きりになるという事実を前に、頭で考えるより先に心が拒否した。
 やがて、サーラをジェンナに近づけてはならない――という理性的な思考が追いついてきた。
(……駄目だ)
 そうなったら初めの予定通り、自分がジェンナと同行した方が良いのではと思い立ち、ユウナが口を開きかけたところへ、グエンが言った。
「ユウナちゃんには姫が同行して」
 藍色の瞳がサーラへと差し向けられると、当然だというように彼女は頷いた。
「ジェンナは、俺と一緒だ」
「マジかよ? こんな戦力分担、聞いたことないぜ」
 苛立たしげに髪を掻き乱すジェンナに、グエンが立ち上がりながら告げた。
「俺が魔族を倒せばいいんだろ。邪魔が入らないのなら、俺一人でやってやるさ。お前は見物していろよ」
「――あ、そう。お言葉に甘えさせてもらうよ」
 グエンが社交辞令に放った言葉を、厚顔無恥にジェンナは受け取った。
 手出しは一切しないということを、宣言するなんて……。
「……グエンさん」
 それでいいんですか? と、不安混じりの声でユウナが問えば、グエンが振り返ってきた。厳しさを湛えていた頬のラインが、柔らかく緩む。
「大丈夫だよ、ユウナちゃん。ユウナちゃんが、この国の人達を巻き添えにしないように守ってくれるんでしょ?」
「……えっ」
 グエンの言葉の意味を把握しかねて、目を丸くしているとサーラが告げた。
「私兵をそちらに回すことはしません」
「うん。邪魔さえ入らなければ、俺一人でも時間は稼げるよ」
 私兵がグエンの元へと駆け込めば――。
(僕たちは……人と戦うんじゃない)
 ジェンナの言葉に惑わされそうになったが、ユウナは自分がすべきことを見つけた。
 それは私兵に下った人間たちを魔族とグエンとの戦闘に巻き込まれないように――そうして、グエンの足を引っ張らせないように――守るのだ。
「きっと、直ぐに駆けつけますから」
「うん。期待しているよ。それまでは、俺もがんばるからね」
 白い歯を覗かせて笑ってくるグエンに、ユウナもまた微笑んだ。
 彼の笑顔が、こちらの不安を払拭するためのものなら――ならば自分も、彼に心配掛けないように、と。
 ユウナは唇に花を咲かせながら、心に誓う。
(――グエンさんを一人で戦わせたりしない。だって、僕たちは仲間なんだから)


 前へ  目次へ  次へ