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 ― 11 ―


「グエンはさ、丸くなったよな」
 その言葉につられるように、グエンは藍色の視線を横に流した。黒い花を頬に咲かせたジェンナの横顔は、前方を見据えたまま続ける。
「――前は、もっと尖っていた。磨かれた刃みたいに」
 そう告げて、ジェンナがようやくこちらに顔を向けてきた。
 現在、ジェンナは足首まである灰色の外套を着ていた。同じくグエンもいつもの格好の上に灰色の外套を纏っていた。
 この灰色の外套は、この国を支配する魔族の息が掛かった者だけが身につけている代物だった。いわば、魔族の手下の証。
 故に、街中を堂々と闊歩していても咎められることはない。
 むしろ、朝が来て目覚めた国の住人たちは、グエンたちを目にすると、こちらの視界から逃れるように視線を逸らして、そそくさと立ち去っていく。
 難癖をつけられるのを恐れているのだろう。
 山を降りて“解放軍”と合流したグエンは、ユウナとサーラの二人と別行動に出て、魔族が現在身を置いている王城へと、ジェンナと二人で向かっている。
 その際、行動しやすいようにと“解放軍”がこの灰色の外套を持ち出してきた。効果は、言わずもがなである。
 朝を迎えた国内を歩けば、これまでの旅の道中で見かけた平和な街並みと、あまり変わらないように見えた。
 しかし、よくよく目を凝らせば、街のあちらこちらで破壊された建物を見かける。魔族の襲撃を受けたときの傷跡か。
 石畳の路上も、砕かれ穴が開いていた。ジェンナが道を曲がるのに連れ立って、グエンも続いた。そうして、目に飛び込んできた光景に一瞬ギョッとなる。
 王城へと真っ直ぐに伸びる道路にあいた大きな穴があった。
 脇にあったであろう建築物ごと吹き飛ばしたのだろうと思われる、強大な穴だ。
 水が溜まれば、湖が出来そうなほどに広く深い穴底で、うごめく人影。
 穴埋めの作業に借り出されたのであろう人間たちが――その人数は十数人はいるだろうか――スコップなどの道具を片手に右往左往していた。
 それだけだったなら、普通の作業光景と変わらない。問題は働いている人間たちの両足に鉄枷が嵌められ、そこから延びた鎖の先には重たそうな鉄球がついていることだ。
(……奴隷――)
 忌まわしい単語がグエンの脳裏に浮かび上がる。
 鈍い足取りで、穴に石を運ぶ中年男性。ボロボロの上着の背中には、血が黒く染み出ていた。
 何だ? と、グエンが訝しんでいると、答えは直ぐにわかった。
 疲労からか自らの足に足を絡ませ中年男性が倒れると、灰色の外套を着た人間が躍り出てきて、手にした鞭を中年男性の背中に打ちつけたのだ。
 ピシリという肉を打つ音が、遠く離れたグエンの耳にも届く。
 差別階級を敷くことで、魔族は人間を支配している。
 街中で普通に生活を許された者がいると思えば、過酷な労働に立ち会わされている人間がいた。
 見るも痛々しいこんな姿を見せられたら、誰だって魔族に逆らう気力は萎えてしまうだろう。
 魔族を恐れ、敬うことで息をすることが許されるのなら、と。
 この国の人間たちは、灰色の外套から目を背けるのだ。
 奴隷になった人間は“解放軍”と呼ばれていた彼らの仲間かもしれない。
 魔族の卑劣さ、残酷さはとうに知っていたが、改めて目の当たりにすると目の前が、怒りで赤く染まるような気がした。
 グエンの右手が腰に携えた剣に手が伸びかけたところを、ジェンナの低い声が制した。
「――馬鹿な真似、するなよ」
「…………」
「今のオレたちは魔族側なんだ。王城に辿り着くまでは、そういうフリをしていろよ」
 と、語るジェンナは穴の底で繰り広げられる一方的な暴力を前に、酷薄な笑みをさらに輝かせた。その笑みは、演技をしているとは思えないほど、生気に満ちている。
「…………っ」
 グエンは王城へと続く道を再び歩き出しながら、ジェンナとの先ほどの会話を思い出し、口を開いた。何か、別のことに思考を向けないと、怒りで剣を抜きそうになる。
 荒れた心を静めるように、ゆっくりと息を吐き出しながら、
「――尖ってなんかいない。元々、丸かったさ」
 会話を再構築する。
 すると、ジェンナも先ほどのことなど既に忘れたような口調で話しに乗ってきた。
「口調は今と変わらないけれど。まとう雰囲気っていうの? 全然違うじゃん。あの二人の前だとさ」
 その答えは簡単だと、グエンは皮肉に思う。
 あの二人が特別だからだ。ユウナには笑っていて欲しい。サーラの前なら、偽らずに笑える。
 そうして、ジェンナには表立った感情にすら、気を使いたくない。
 ――ただ、それだけのこと。


                  * * *


 四つになる子供が怖かったと言ったら、笑われるだろうか?
 だけどその頃のグエンは、ユウナが怖かった。
 小さいけれど可憐に微笑むその笑顔が。
 突けば弾けそうな柔肌が。
 折れそうな細い四肢が。
 簡単に他の色に染まってしまいそうな純真な無垢さが。
 ほんの小さな接触でも、その幼い子供を傷つけてしまいそうで。
 それと同時に、穢れた自分が触れることによって、汚してしまいそうで。
 ――近づくのが、怖かった。
『そろそろ、おやつの時間にしようか、ユウナ』
 カレナの声を意識の端に聞いて、グエンは重たい瞼をこじ開け、瞳を見開いた。
 すると、台所へと向かう背中が霞んだ視界に映る。一つにまとめた赤い髪が、彼女の動きに合わせて、馬の尻尾のように右へ左へと揺れる。
 それをボンヤリと眺めて、グエンは自分の状況を省みた。
 どうやらテーブルに頬を預けて、眠っていたらしい。肘をついて上半身を起こせば、ズルリと肩を滑るものがあった。床へと落ちる寸前に掴むと、それはジスタが外出する際に、いつも身に纏うマントだった。
 玄関口のフックに掛けてあるものを、身体が冷えないようにと掛けてくれたらしい。
 ジスタ本人か、それともカレナか。どちらにしても、その心遣いがじんわりと心に染みてきて、温かい。
 ……どうして、こんなにも優しくしてくれるのだろう。
 グエンはジスタのマントを抱えて、目尻を熱くし、涙ぐむ。
 魔族の奴隷になっていた自分への同情だったとしても、何も返せない自分に優しくする価値があるとは思えないのだけれど。
 魔族から解放した時点で、放り出しても誰も責めやしないだろうに。
 ジスタはグエンに部屋を与えてくれた。カレナは温かい食事を用意してくれる。
 何も言わずに、何も求めずに。
 そんな生活が、三ヶ月を過ぎようかとしていた。
 悪夢は相変わらずグエンを悩ませて、夜は眠れないこともあったけれど。こうして、昼間にまどろむときは、悪い夢が襲ってくることはなかった。窓から差し込む日の光か、それともカレナやジスタの気配が感じられるからか。
 グエンは台所とは反対側へと目を向けた。ジスタは今頃、畑の世話をしているはずだ。ガイナンも、それを手伝っているのだろうか、姿が見えない。
 窓の外を眺めようと視線を動かしたその途中、こちらへと近づいてくる人影に気付いた。
 まだ重心が安定していないせいか、どこか危うい足取りで近づいてくるのはユウナだった。
 杏色のつぶらな瞳で真っ直ぐにこちらを見つめ、一歩一歩近づいてくるユウナを前に、グエンは息を呑んだ。
 小さな手が、グエンが持っていたジスタのマントの端を掴む。その瞬間、グエンは椅子を引き、立ち上がっていた。
 ガタンと床に椅子が倒れた音に、驚いたようにユウナが硬直する。その様を見下ろして、グエンはジスタのマントを放り投げていた。
 翼を広げるようにして、ユウナに覆いかぶさるマント。小さな子供を包み込んであまりあるマントの下で、小さな手がじたばたと足掻いているのを見て、グエンは玄関を飛び出した。
 ――近づいちゃいけない。
 強迫観念に似た思考が、ぐるぐるとグエンの思考を駆け巡る。
 ジスタやカレナならともかく――二人には、グエンという闇を抱えても、払拭できる強さがあるが――小さなユウナにだけは近づいてはいけない。
 あの可憐な花に触れる資格は、穢れている自分にはないのだ。
 玄関のドアを閉じ背中を預けていると、戸板の向こうで小さな手がドアを開けようとしている気配が伝わってきた。
 ユウナは、こちらが避けているのがわからないのか、構ってくれというように近づいてくる。
 その無防備さもまた、グエンには怖くてしょうがなかった。
 ユウナはちょっと触っただけでも、枯れてしまいそうな気がする。
 ジスタとカレナが大事に慈しみ、育んでいる花を枯らしてしまえば、自分の存在を許してくれる場所が、なくなってしまう。
 慌てて、逃げ場を探していると、頭上から声がした。
『――どうした? 誰か、探しているのか?』
 声がする方に藍色の瞳を上向ければ、庭に生えた大木の枝に身体を預けて寝転がっているガイナンの巨体があった。
 大きな彼の身体を支えてもビクともしない大樹は、一番近くの枝でも成人男子の背丈の二倍ぐらいの高さにある。
 どうやってそこまでよじ登ったのか、と。グエンが目を剥けば、トントンと急かすように、背後でドアが叩かれる。
 グエンは考えるより先に、駆け出した。大樹の根元に寄ると、大地を蹴る。身体は驚くくらい軽く、跳ね上がった視界は目を見開くガイナンを間近に捉えた。
『――なっ』
 反射的に伸ばされたガイナンの腕を掴むと、グエンの身体はほんの一つの動作で天に近いところにいた。
 ガイナンに抱きかかえられ、枝に伸ばした長い足の太ももの上に乗せられる。鍛えられた筋肉はグエンを乗せても、大して苦にならないらしい。
 そんなことを思いながら、呆然と金色の瞳を振り返る。
『――グエン、お前……』
 ガイナンの声に切迫した響きを感じて、グエン自身もまた鼓動を早めた。
 ……今のは?
 明らかに人間の身体能力を超えた跳躍だった。普通に飛び上がれる高さではないことは、明白で。
 グエンは自分の身体の変化を、痛烈に自覚せざるを得なかった。治癒力が高まっただけではなく、身体の組織自体から変化しつつある。
 ワライダケを受け付けなかったのも、その変化の一端だったのだと、今ならわかった。
 昔は、悪い食べ物を食べていたら、普通に食あたりを起こしていたのに。
 今では、味覚は普通にあるものの、どんな食べ物でも受け入れてしまう。カレナの失敗した料理を平然と平らげてしまう様に、ガイナンは「お前の胃は、鉄で出来ているんだな」と呆れていた。それをグエン自身も驚いていた。
『……俺……』
 カチカチと鳴る奥歯の間から震える声を吐き出せば、眼下で家の玄関の扉を開けて庭に出てくるユウナの姿があった。
 声がユウナに届くことを恐れて、グエンは手のひらで己が口を塞ぐ。ついでに、ガイナンを振り返って、黙っていて、と視線で訴えた。
『……お兄ちゃん……?』
 外に出てきたユウナはグエンの姿を探して、首を巡らせる。
 まさか、頭上にいるとは思っていないから杏色の瞳は右へ左へと庭先を彷徨い流れ、見つからないグエンを求めて歩き出す。
 畑の方へと歩いていく小さな背中を見送って、ホッと息を吐き出せば、ガイナンが笑いを含んだ声を投げてきた。
『かくれんぼでもして、遊んでいるのか?』
 肩越しに振り返ると、ガイナンは唇の端を引き上げて笑っていた。
 先ほどの衝撃的な出来事には、触れる気はないらしい。
 サルダに囚われていたことの意味をガイナンは知っているのかもしれない。
 他の魔人より醜悪で最悪で凶悪な……サルダ。
 その奴隷であったことの意味。
 使役されるために囚われるには、グエンは幼く。そして、あのサルダが使えない奴隷をただ生かすはずもない。
 生き残ってしまった。死にたくても、死ねなかった――その現実。
『……違う……』
 グエンは心の内側に広がる闇を払うように頭を振り、藍色の瞳を畑の方へ差し向けながら、続けた。
『ユウナは……何で、俺に構うんだろう』
 遊び相手になったことなど、一度もない。話しかけることすら、怖くて出来ない。
 ユウナが伸ばしてくる手をことごとく拒否してきた。愛想を尽かされてもしょうがない。自分ならとうに見切りを付けて構わなくなるだろう。
 それなのに、ユウナは……。
『坊ちゃんは、あの二人の息子だぜ?』
『……えっ?』
『確実に、あの二人の血を継いでいる。だとしたら、答えはわかるだろ?』
『……どういうこと?』
『目の前で、不安そうにしている奴がいたら、放っておけないのさ』
『…………』
 ストンと、疑問という隙間に答えがはまり込む。それは当たり前すぎるくらいの答えで、気付かなかった自分に驚いたくらいだ。
『……あ』
 何だか、グエンは笑いたくなった。
 四つの子供にまで心配をかけている自分が情けなくて……失笑したい。
 そうして、得体の知れない自分を心配してくれる優しさが、幼いユウナの中に存在していることが嬉しくて――微笑みたい。
 二つの感情がない交ぜになって、グエンは泣き笑いの表情を作った。
 そんなグエンの黒髪をポンポンとガイナンの大きな手は叩く。太鼓と勘違いしているんじゃないかと、思うくらいポンポンと。
『ハッタリでもいいからさ。笑っていろよ』
『……嘘でもいいの?』
『ああ、その嘘もいつか本物にすればいいだけの話だ。奥さんの話じゃないけどな、笑い方だけは忘れない方がいい――まあ、忘れてしまったら思い出せばいいだけの話なんだが』
 軽く肩を竦めながら、ガイナンはフッと笑い声をこぼした。
『笑っていれば、大抵のことはどうにか出来るような気がしてくる。ジスタなんかと旅をしていると、余計に思うぜ』
 ガイナンがそう言って地上を指差せば、畑作業をしていたのであろうジスタがユウナを抱いて庭先に戻ってくるところだった。
 そよ風に淡い金髪をなびかせる乙女のような青年と、淡い茶色の髪の――ユウナの髪の色は両親の髪の色をそれぞれ受け継いだのだろう――女の子のような男児は、遠目にはどう見ても男には見えない。
 二人の周りには花が舞っているような雰囲気すら漂っている。
 そんな空気の中でひと際、輝いてほころんでいる二つの笑顔を見ていると、グエンはなるほど、と納得した。
 絶望しか、暗闇しか、残っていないと思っていた世界にも。
 希望がある。光がある。
 ――まだ、全部を失くしたわけじゃないのだ、と。
 認識して初めて、グエンは守りたいものを見つけた気がした。


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