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 ― 14 ―


『――魔獣?』
 反射的に繰り返したグエンに、ジスタはふわりと口元をほころばせた。
 笑える状況ではないことを思うと、その笑顔はこちらの不安を削ぐためのものだと、グエンでもわかる。
 睫を瞬かせて、ジスタを見上げれば、
『用意が出来だぜ』
 と、部屋からガイナンが靴底を荒々しく踏み鳴らして、出てきた。
 長剣を背中に担ぎ武装した彼を振り返ると、ガイナンもまた唇の端に笑みを浮かべた。
『直ぐに片付けてくるから、心配するな』
『男は、安易な約束をしたがるな』
 やれやれ、と。カレナの呆れた風な口調が、緊張を孕んだ場に水を差した。沸騰寸前の熱湯は、差し水によって温度が下がる――そんな感じで、ガイナンのテンションは目に見えて低くなった。
 前屈みに勢い込んでいたガイナンは、勢いを殺され眉を潜めた。金色の瞳に非難する色を浮かべて、カレナを振り返る。
『……奥さん、アンタな』
『魔獣の巣がわかっているわけではないのだろう? 暫く、家を空けることになるのに、直ぐにと言うのは逆にグエンの不安を煽りかねない』
『なるほどね』
 腰に片手を当てた姿勢で、淡々とカレナがガイナンの揚げ足を取れば、ジスタが追随した。
 苦いものを食べさせられたように頑強な剣士の顔が歪む。この夫婦のペースに慣れるには、一年の月日を費やしても足りない。
『……あのな』
『つまり、そういうことだ。グエン』
 抗議しようとしたガイナンの声を遮り、カレナの橙色の瞳がこちらを見下ろしてきて、グエンは目を丸くした。
 どうにもカレナは、肝心なことを端折る傾向にあるようだ。
『暫く、僕とガイナンはいないけれど、心配ないからね』
 ジスタもまた、説明した気になっているらしい。この自己完結してしまう性格も、夫婦揃って似ている。
『ふもとの村に魔獣被害が出たんだ。深刻な事態には至っていないが、人死が出る前に対処したいからな。暫く、村の方にオレとジスタが詰めることになった』
 ガイナンが困惑するグエンを見かねたのか、説明してくれた。それで、ジスタとガイナンが家を空けると言う。
『だから、ユウナのこと。よろしく頼むね、グエン君』
 ジスタが傍らに視線を落とせば、ユウナがいた。幼いなりに、自分の父親が危険な冒険へ出掛けようとしているのが、わかっているのだろう。
 大きく目を見開いて、ユウナはジスタを見上げている。
 杏色の瞳に浮かんだ不安が小さな拳を硬くし、ジスタを行かせまいと、彼が纏うマントの端を強く握り締めていた。
『僕はちゃんと帰ってくるよ。ホラ、約束』
 ジスタは穏やかな笑みを見せながら、身を屈めて目線の高さを同じくすると、白い小指をユウナに突き出した。そうして、ユウナの小さな指に絡ませる。
『何だ、それ』
 ガイナンが身体を二つに折り曲げるようにして、その儀式を覗き込んだ。
『約束のおまじないだよ、知らない?』
 どこかの国にある風習で、約束を誓い合うのだと、説明するジスタを見下ろして、カレナは首を振った。
『本当に。男は安易に約束をしたがる』
『僕は果たせない約束はしない主義だよ、奥さん』
 そうして指を解くと、ジスタは立ち上がってカレナに唇を寄せた。ふくよかな頬に口付けを落として、若葉色の瞳に熱を宿す。
『帰ってくるからね』
 口調はあっさりしているけれど、瞳の奥の真摯さがこれから向かう危険を物語ると同時に、絶対に帰ってくるという決意を秘めていた。
『帰ってこなかったら、迎えにいくだけさ』
 カレナは素っ気なく返しながらも、ジスタの淡い金髪の毛先を指先で摘んで撫でた。
『ふふふっ。だから、奥さんが大好きだよ』
『独り身の野郎を前に、見せ付けるなよ。行くぜ』
 カレナに抱きつきそうな勢いのジスタの襟首を掴んで、ガイナンが引っ張る。
 まるで猫でも扱っているかのようにジスタを連れて、玄関口を開ける彼の背中に、カレナが声をかけた。
『ガイナン、お前も帰って来い。裏庭に墓を用意しておいてやるから』
『――冗談は、時と場合を考えて言ってくれっ!』
 噛み付くように咆えたガイナンによって、ドアは乱暴に閉じられた。バンと叩きつけられるドアの勢いに、室内の空気が乱され風が舞う。
 はらりと目元に落ちてきた前髪を掻き上げて、カレナは眉間に皺を寄せた。
『余裕がない奴だな』
 ……余裕がありすぎるのも、どうかと思うけれど。
 グエンはカレナの冗談を前に苦笑した。彼女は、ガイナンほどには魔獣を恐れていないらしい。
『何にせよ、ユウナ、グエン。お前たちも気をつけろ』
『えっ?』
『先ほども言ったように、魔獣の巣はわかっていない。ふもとの村で見かけるようになってということだが、この辺りに出没しないとも限らないからな』
 カレナは瞬き一つして窓の外へと視線を投げた。つられて、グエンも外に目を向けた。丘を下っていく、ジスタとガイナンの後ろ姿がやがて窓枠の端へと消えていく。
『まあ、ここは見通しがいいから変な影を見つけたら、家の中に逃げ込めるだけの猶予はあるだろうが……』
 ポンと頭を叩かれた。カレナにしてみれば、撫でたつもりだったのかもしれない。クシャリと髪が音を立てた。
『私の傍から、離れるな。傍にいれば、お前たちを守ってやる』
 両手をユウナとグエンの頭に乗せて、カレナは唇の端をキュと釣り上げるようにして笑う。
 力強い笑みは、絶対的な強さを裏付けてのものだろう。
 子育てで主婦をしているが、カレナはジスタと共に魔王を倒した勇者なのだ。
 ここにいれば安心だと、髪を伝って染みてくる手のひらの温もりが保証していた。
 守られている。保護されている。その安心感を前にして、グエンは小さく『うん』と、頷いた。
 頷きながら、その反面、唇の内側を前歯で噛んでいた。心の奥底から這い上がってくる不安。
 果たして、いつまでこの優しさに甘えることが許されるのだろう? と。
 あの暗い檻からジスタによって解放され、この家に身を寄せてもう直ぐ一年が経とうとしている。
 ジスタもガイナンも、あれから冒険者らしい仕事はしていない。今回の一件が、グエンが知る初めての魔族退治になるだろう。
 力があり、それを求める世界があることを知りながら、二人はただグエンの傍にいてくれた。
『家でのんびりするのも悪くないね』と、ジスタは笑っている。ガイナンも、『老骨には休息が必要なんだよ』と言い訳するように、口にした。
 全ては、過去の記憶に囚われているグエンに配慮してのことだ。
 暗い記憶に怖くて震えていることしか出来ない子供の傍についていてやろうとする優しさが、二人を縛り付ける。
 そうして、彼らの存在意義を奪った偽りの平和の上で、自分はいつまで安穏としているつもりなのか。
『さて、昼の用意でもするか』
 カレナは場の雰囲気を変えるように言って、台所へと向かう。その背中をトコトコと追いかけていくユウナ。そんな二人を見送りながら、グエンは覚悟を決めなければならないことを痛烈に感じていた。


                  * * *


 扉が開けられ、その場へ足を踏み込むや否や、槍で――長柄の先に取り付けられた片刃は、突くというより斬る攻撃を目的としたもので、グレイブと呼ばれる種類のものだ――前後左右を囲まれた。頬や首筋に触れそうな刃。肩に圧し掛かる重みに、グエンは足を止めて、眉を顰める。
 動けないグエンを横目に確認すると、ジェンナは室内の奥に目を向けて声を張り上げた。
「――エステナ様。所望の冒険者を連れてきましたぜ」
 それはどこか、投げやりな口調だった。魔族相手にも敬意を払うことなく、飄々とした態度を崩そうとしない――ジェンナらしいと言ってしまえば、それまでなのかも知れないが。
 部屋はグエンが思っていた通り、謁見の間らしい。奥行きのある大空間。その奥は少し高くなっていて、玉座が設えられていた。
 この国の王と王妃が座っていたのであろう二つの玉座のうち、一つは空だった。もう一つに腰掛けているのは、貴族のような衣装を纏った痩身の男。
 青年と言うにはやや年を感じる。人間で言えば、三十代半ばといったところだろうか。最も、魔族の年齢は二十歳ぐらいまでは人間と代わらぬ速度で成長するが、それ以降は緩やかなものになる。そうして、人間と比べ遥かに長寿であることを考えれば、三、四百歳だろうか?
 グエンが今まで出会った魔人たちの中では、一番年を重ねていることには間違いない。
 リスラ、ディア、カネリア――そして、サルダよりも。
 エステナと呼ばれたその魔人は、そう長くもない水色の髪を後ろへと流していた。広い額に、相反して細い眉毛が神経質そうな印象をグエンに与えた。瞳は鈍い鉄色。骨ばった頬に、尖った顎。細い目元の印象も、それに一役買っている。
 顔の両側に並んだ耳の先端は尖っていた。その特徴は姿形が人と変わらない魔人を視覚的に識別できる唯一の特徴。
 ――間違いなく、魔人だ。しかして、グエンが初めて見る相手だ。三年前に標的にしていた魔人とは違う。
「――男ではないか」
 玉座から立ち上がった魔人は、こちらへと距離を縮めて一言吐いた。その声の印象もまた、細くて覇気がない。
(…………)
 グエンは一瞬で、エステナという魔人の本質を見極めた。
 命を張り合って戦ったリスラやディアとは比べ物ならない――弱い相手だ、と。
 魔族としての能力は、明らかに普通の人間を脅かすには十分だろう。高みから魔法を放てば、人間たちの度肝を抜かせる。
 けれど、それだけだ――少なくとも、自分の敵ではない。
 そうグエンは確信した。この魔人一人なら、ユウナやサーラの手を借りなくても倒せそうだ。
(……一人なら……か)
 自らの心の声に、グエンはこれまた心の内で笑った。
 今、グエンを押さえ込んでいる私兵が四人。それにジェンナと、この場にはその他が存在するのだ。
 それでも、グエンは動揺を覚えなかった。焦りもない。頭は酷く冷静に、自分が置かれた状況を見据えていた。
 エステナには自らの強さを自負するような気配が感じられない。魔族という立場に頼った者。力を持たぬ者。それ故に、策略に走るジェンナと通じるものがあったのか。
 グエンは槍によって肩を押さえられて、床に片膝をついた。主を前に跪かせようとしたのだろうか。傾いだ身体を支えるために、右手を伸ばして突っ張った。
 そこへエステナが大理石の床に靴音を響かせ近づいてくる。
「女でなければ、あの方への捧げ物にならぬではないか」
 カツカツという音の狭間に、焦れたような声。
(……女?)
 グエンは思わず首を傾げそうになった。皮膚に触れた冷たい感触に、慌てて首筋を伸ばす。
 ユウナを女と間違えていたのだろうか? 
 ジェンナは、ユウナを最初女の子だと勘違いしていた。ジスタとカレナの子供が「ユウナ」と言う名だとは知っていても、その性別までは実際に目にするまでわからなかったのかもしれない。
 それにしても「捧げ物」とは、どういう意味だ? まだ、裏に何者かがいるのか。
「直ぐに、別部隊が捕まえますよ。お人好しのお嬢ちゃんがいるからね。あのお姫さんも、無茶は出来ないさ。第一に、こっちにはこいつがいる」
 ジェンナはエステナの横顔に、告げた。
「仲間を人質にとられたら、あのお嬢ちゃんは――多分」
 チロリと口内でうごめく蛇の舌。唇の端に浮かぶのは嘲笑。
 ユウナの人の良さを笑うジェンナに、グエンは怒りを覚えた。
 あの子の優しさは、誰かに愚弄されるようなものではない。偽善でも、計算でもなく、ただ純粋に相手を思いやる無垢なまでの優しさを、非難する権利は誰にもない。
 床に付いた右手をギュッと握り締めて、暴れ狂いだしそうな怒りの衝動を殺して耐える。
 爪をたてるのは、まだ早い。
 牙を抜いたと安心しているジェンナを脅かすのは、もう少し後だ。
 敵はエステナだけでは、ないようなのだから。
 エステナの底を知った時点で、逆らっても良かった。ジェンナを頭数に入れた五人の人間の敵も、グエンにしてみれば大した相手じゃない。ただ、危惧するのは魔人との戦いに巻き込んでしまわないかという――その心配は、ジェンナの裏切りを前にすれば、気を使うだけ無意味だろう。
 どんな事情があったにせよ、こちらの能力を知っていて敵にまわした以上は自業自得だ。
 人を斬れるグエンを知っているなら、斬られても文句なんて言わせない。
 ただ、それでも。魔族に下ったジェンナの真意が知れるなら、と。
 グエンは無防備になってみた。
 ユウナやサーラのためなら、我が身を犠牲にしても構わないとグエンは思っている。だけど、今回はその必要なんてなかった。
 ユウナの元にはサーラがいる。グエン自身が惚れ込んで、ユウナの守護者に選んだ彼女が傍にいるのだ。安心して、任せていられる。信じていられる。
 だから今、グエンがすべきことは真の敵が誰であるかを見極めることだった。
 頭を垂れて、屈服しているかのように見せかけながらグエンは、ジェンナとエステナの会話を拾う。
「それより、話はちゃんと通してくれよ? オレの価値があの方という奴にも伝われば、アンタだって安泰だろう」
「……わかっている」
 ジェンナは胸元で腕を組んで言った。その口調の尊大さにエステナは苦虫を噛み潰したように応えた。
 それから意趣返しするかのように、声に含みを持たせて繰り返した。
「ああ、お前の価値を十分にあの方にお伝えするさ」
 エステナの声に宿る、ガラスを爪で引っ掻くようないびつな響きが、グエンの神経を逆撫でした。嫌悪が澱のように積もる。
「昔の仲間を平気で裏切り、魔族に媚を売るお前の価値を」
「仲間なんかじゃないさ」
 薄ら笑いでジェンナはエステナに応えた。
 自分に向けられる悪意でさえ、笑うのか。
 ジェンナという人間が、グエンにはよくわからなくなる。理解の範疇を超えていた。
 魔族の奴隷となり、自らの頬に奴隷の証となる刺青を刻み、それを晒して歩くことも。
(…………?)
 思考に引っ掛かりを覚えて、グエンは俯いた影で眉間に皺を寄せた。
 魔族の奴隷になったことと、その証の刺青を刻んだこと。
 それは、どちらが先だ?
 奴隷となって、刺青を刻んだのか? 刺青を刻んで、奴隷の証にしたのか?
 これは似ているようで、大きな違いがある。問題の根源から変わってくる。
 どちらでも、裏切り者には変わらないかもしれない。
 ――だが。
「仲間じゃないから、裏切れる。そういうモンだろ?」
「お前にとっては、魔族が仲間だとでも言うのか?」
 ジェンナが軽く肩をすくめる気配が伝わってきた。グエンはゆっくりと、悟られぬように視線を上げた。
「さてね。生き延びるためには何だってする、そんなもんだろ。実際にアンタだって、人間であるオレと組んだ。あの方の怒りを静めるために、さ」
 微かに響く笑い声に、エステナは舌打ちをこぼす。そうして、震えるように己が両腕を抱いた。
「……お前はあの方の恐ろしさを知らぬから、そう笑えるのだ」
 指先が小刻みに動いていた。先端を飾る爪は、延びれば人間の命を簡単に掻き切ることが出来る凶器になるというのに、エステナのそれはあまりにも頼りない。
 それはこのエステナが魔人の中で弱い部類に入るからなのか、それともエステナが語る「あの方」が魔族を脅かすほどの力を持っているからなのか。
「そうでもないぜ? アンタから聞かされた話に寄れば、魔族の中でもすげぇ強いらしいじゃないか。魔人を瞬殺するなんて、同じ魔人同士でも簡単じゃねぇだろ?」
「あの方は特別だ」
「そこまで言われると、今度は本当にあのお方という奴が強いのか、疑問だぜ。だってさ、冒険者相手に手傷を負ったんだろ? 奴やアンタが怖がりすぎている気がしてくるな。まあ、こいつは強いから魔人とはいえ、手こずるだろうけど」
 ジェンナの視線がグエンへと落ちてきた。つられてエステナの瞳がグエンを捉え、細い眉が弓なりに動く。
「……こやつが、サルダの……」
 品定めするかのような眼差しを前に、
「ああ、人魔創造の実験に成功した、唯一の生き残りだよ」
 ジェンナは、グエンが思い出したくもない事実を暴露した。


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