― 17 ― 広い城内のどこにグエンがいるのか、探しているところへ、何かが崩れるような音がユウナの鼓膜を引っ掻いた。 ――今の音は? ユウナは目を瞬かせて、音の出所を探す。耳を澄ませて位置を把握したのは、サーラの方が早かった。 「あちらのようですね」 薄紫色の瞳が向けられた先に、ユウナは頷いて駆け出した。 早く、グエンと合流しなければ――その思いがユウナを駆り立てる。マントの裾が足に絡みつくのがもどかしい。 闘技場で“解放軍”と騙る者たちとの決着は、実にあっさりと勝負がついた。 グエンは、あのような状況を察して、サーラを同行させてくれたのかもしれない、と。ユウナは少し前のことを反芻する。 偽りの“解放軍”の面々は、誰もユウナたちに手出しは出来なかった。サーラの防御魔法がそれを許さなかったのだ。 見えない壁を挟んで対峙するユウナたちと“解放軍”。 さて、これからどうしたものか? と迷っていると、サーラがマントの下、腰のベルトに携えていたらしい小さな袋を取り出しながら言った。 『ユウナ、風の魔法でこの粉を彼らにまいてください』 差し出された袋を受け取ってユウナが首を傾げると、サーラは淡々と言った。 『眠り薬です。その粉を吸えば、数時間は夢の中に』 目から鱗がこぼれる、というのはこんな感じなんだろうかと。ユウナはどこかで聞いた格言を脳裏に浮かべる。 戦うだけが、傷つけあうだけが、全てではないことを教えられた気がした。 ユウナは魔弾から風の魔法を解放して、眠り薬をばら撒いた。 四散する粉は、闘技場全体を覆い尽くしたサーラの結界魔法に阻まれて、ゆっくりと地上に落ちては、“解放軍”の男たちの体内へ呼吸を通して侵入していく。 睡魔に誘われ、意識は揺らぐ。ばたりばたり、と。男たちは崩れていく。 幼い頃に、母に歌ってもらった子守唄が聴こえたような気がした。その歌を聴くと、とてもよく眠れたのだ。 ユウナが過去を思い返し、頭の中で繰り返された歌が終る頃、辺りは静寂に包まれ、寝息だけが場を占める。 何てあっけない結末だろう。少し拍子抜けしているユウナの横で、サーラは浄化魔法の呪文を唱えて、空気中に漂っているだろう眠り薬の粉を無へと返す。 『<清浄なる唄>』 凛とした声が空気を震わせた後、 『行きましょう、ユウナ』 サーラが踵を返して歩き出した。 それが、闘技場での出来事だった。 (――サーラさんがいてくれて良かった) 廊下を共に走る彼女の横顔をチラリと見やって、ユウナはしみじみと思う。 サーラもグエンも、自分が考えていることの先を行っていた。“解放軍”を前に戸惑ってしまった自分を省みれば、己の思考の幼さが恥ずかしい。 いつになったら、自分は二人の領域に追いつけるのだろう。 ――二人の役に立ちたいのに。 その思いが、ユウナの足をさらに早めた。かなりの距離を走ったので、心臓が胸の内側で激しく跳ね上がっている。 息も上がり気味だが、足は止められなかった。 (グエンさんを、一人では戦わせない) 今の自分に出来ることは、それだけだと思うから。ユウナは唇を噛んで、苦しさを堪えた。 そうして走っていたところ、金属がぶつかりあう剣戟の音が耳をかすめた。大きな扉の向こうから聞こえる。 ――そこ。 ユウナは迷うことなく、体当たりをするようにして扉を開いた。謁見の間らしい広い空間。玉座が並んだ場所から少し下りた先、青い服を見つけた。三人の人影が入れ替わり立ち替わり交差するが、いつも自分を見守り、笑顔を見せてくれるその姿を見間違うはずはない。 「グエンさんっ!」 ユウナは自分が無事であることを知らしめるように、彼の名を叫んだ。 その瞬間、玉座の前で傲然と立っていた人影が首を動かしてきた。蒼い目と視線がかち合った。 氷のように冷たい蒼い瞳に、漆黒の髪。全身を黒衣でまとめた青年は――先月、カネリアの屋敷で見かけた魔人だった。 ――どうして、ここにいる? サーラが傷つけた右目部分を黒い眼帯で覆っていても、その秀麗な顔立ちはユウナの記憶にある姿に結びつく。ディアという名前を思い出す。 こちらを見下してくる瞳に、ユウナの意識は釘を打たれた。 まるで獲物を見つけたかのように蒼い瞳はユウナを、そしてサーラを見つけて煌めく。 サーラへと注がれる視線に宿る熱が、ユウナをざわつかせた。 憎悪とも嫌悪とも判別つかない感情で、ディアはサーラを見つめている。この瞬間、他の誰も彼の意識には存在しないように思えた。 ただ、サーラだけが彼の全てで。それ以外は要らない――と。 ディアの中にある感情が自分からサーラを奪っていくようで、彼の視線が熱ければ熱いほど、ユウナの背筋は冷えた。身体中の熱が奪われ、凍りつく。 足が止まるところを、傍らにサーラが寄り添って肩に手を置く。その僅かな重みに勇気付けられ、ユウナはディアから視線を引き剥がした。 グエンの青い影を視界に捉えようと杏色の瞳を動かせば、衝撃的な光景を前にして、ユウナの口から声が奪われた。 「――お前はもう、死んでいろ。ジェンナ」 吐き捨てるような一言が、グエンの声で語られると、銀の一閃が視界をかすめた。 その軌跡は真っ直ぐに伸びて、ジェンナの脇腹を突く。 切れ長の目が大きく見開かれ、仰け反る首筋。乱れる枯れ草色の髪。黒い花を咲かせた頬を歪めるその人の身体から、突き出した銀の刃。先端から落ちる赤い雫。 (――えっ?) ユウナもまた目を見開いていた。 時間が止まった気がした。誰もが動けなかった。 グエンと戦っていた水色の髪の魔人も、ディアも、サーラも――剣に貫かれたジェンナも。 動かない、動けない。 時の呪いを掛けられたように、思考すら動かない。 ぽたりぽたりと、滴り落ちる赤い雫が流れる時間の証を刻む。 時の魔力だけが息づいているかのような錯覚。 だけど、一人だけ呪縛に支配されていない者がいた。 グエンは剣を引き抜くように、ジェンナの胸へブーツの底を置いた。腕を引き、足を伸ばす。反動をつけて、グエンはジェンナを蹴り飛ばした。 綺麗に抜かれた刃から解放されたジェンナの身体は、宙を滑った。床に点々と散っていく血痕。 赤い痕跡をユウナは無意識に目で追った。 壁に叩きつけられたジェンナの身体は二度、床の上で跳ねて、後はピクリとも動かなくなる。 横たわった人影に、ユウナは息を呑んだ。ヒュッと吸い込んだ空気が喉で鳴って、我に返る。 「……グエンさん?」 ――どうして? という疑問が、口からこぼれそうになった。それを問いかけること自体、無意味なことを思い出す。 ジェンナは裏切り者なのだ。魔族と通じていた。今回の全てが、ジェンナの策であったのなら、彼は間違いなく自分たちの敵で。 ――敵だから……倒さなければならない――その思考が麻痺したユウナの意識に、グエンの行いの答えとなった。 (――でもっ) 反射的に、答えを否定する自分がいた。 確かにジェンナは敵で、許されない罪を犯した。 彼の裏切りで、どれだけの冒険者たちが犠牲になったのか。それを思えば、ジェンナが受ける制裁は死に値するかもしれない。 (――だけどっ!) 心の内側でユウナは悲鳴を上げる。それは声にならずに、ただ可憐な唇を震わせた。 ジェンナに制裁を下すのが、グエンでなければならなかったのか? 数多くの魔族を殺して、命を奪ってきた自分たちの手が汚れていないとは言わない。 魔族も人間も命の重さには変わりなく。もうこの手は今までに屠ってきた魔族の血に赤く汚れている。 それでも、人間側を代表して戦っているグエンが、何故、人間を殺さなければならないのか? ジェンナの裏切りは、後で他の人間たちに裁いてもらえばいい。何も、グエンが裁く必要はない。 だって、ジェンナはグエンの知り合いなのに。決して気安く心許せる相手ではなかったにしろ、顔見知りの命を自ら狩るなんて。 そんな重い役目を、どうしてグエンは自ら背負うのか。彼に課せられた重荷を思うと心が軋む。 そして、やはり人の死は心をギュッと締め付けた。苦しい。辛い。 それを自らの手で成し遂げたグエンはもっと辛かっただろう。 冒険者は、命を殺めたくて戦っているわけじゃない。守りたい命があるから、敵の命を奪う。 「……グエンさん」 ようやく声を搾り出して呼びかければ、藍色の瞳が静かにこちらを見返してきた。 感情の揺らぎなどない冷徹で静謐な眼差しを見て、ユウナは自分の考えが如何に浅はかであるのか知らされた。 彼は自分が握っている刃の意味を知っている。それで喰らう命の意味も。それで背負う罪も覚悟も。 だから、迷いもなく剣は振るわれる。命を狩る。 例え、ジェンナが旧知の仲でも、守るべきものを知っているから、戦う。 藍色の瞳が動く。向かい合う水色の髪の魔人ではなく、玉座の前に佇むディアへと注がれ、靴底が床を蹴った。 赤い血のりで染まった切っ先を尖らせて、ディアへと襲い掛かる。 「<白銀の鎧>」 ユウナの隣でサーラが囁いた。魔力がグエンに集中して、彼に見えない鎧を拵える。 二人の切り替えの早さに、ユウナは慌てて魔弾を解放した。 水の魔法と風の魔法を合わせて氷の矢を作って、ディアへと放つ。 襲い掛かる無数の矢を前にして、ディアは悠然と佇みながら唇を動かした。 「<――食い尽くせ、竜の顎>」 朗と響く声が氷の矢を片端から噛み砕く。 ユウナが放った魔法は、無惨に打ち砕かれたガラスの破片のように光を反射して、場を白く染め上げた。 ふわりと落ちてくる白雪のベールを引き裂くように、突出したグエンの剣がディアへと突き出される。 ディアは右手の爪を伸ばして、銀の刃を弾く。跳ね返される剣の勢いのままに、グエンは後方へと後退した。床を転々と蹴って、ユウナたちの前に逃れてくる。 青い背中越しにユウナは、ディアが左手を床にめり込ませている光景を目撃した。 足場をそのままに崩れた体勢を戻そうとしていたならば、グエンはディアの左手の第二攻撃を受けていただろう。 サーラの防御魔法があるとはいえ、衝撃はグエンにダメージを与えたに違いない。刹那の判断が生死を分ける。 迷ってなんかいられないのだと、ユウナは教えられる。 瞬時に判断しなければ、全てが奪われる。 戦うだけが、全てではないけれど。 戦うことしかできない現状もあるのなら、一番大事なことは何かを見極めた者だけが生き残れる。 「――全ての元凶は、ディアですか」 サーラの冷淡な声がグエンに問う。それに藍色の瞳が肩越しに振り返り答える前に、ディアの声が割り込んだ。 「――お前も俺を愚弄するのか、サーラっ!」 放たれた声の激しさに、ユウナは電撃を受けたように痺れた。 ディアから感じる感情は純粋な怒り。それは――。 「俺がこんな姑息な真似をすると? 見下げてくれるなよ、サーラ。俺はお前を殺すのに、誰の力も借りやしない」 真っ直ぐにサーラを射抜く熱い視線。普通の者なら、射抜かれて熱から派生した炎に巻かれて、魂は灰へと変わるだろう。 だが、サーラは自らに注がれる視線を受け止めた。薄紫色の瞳はディアの熱を取り込んでもなお冷たく、揺るがない。 「貴方のその言葉は、何を持って証明されると言うのです?」 声は抑揚なく放たれる。どれだけ熱く焦がれようと、清冽な彼女の心には何の変化も与えない。 「――私は貴方を信用しません。私の信頼が欲しければ、証を立てるのですね」 下手をしたら、それは挑発にも取れる。 サーラは、この場でディアとの決着を付けるつもりなのだろうか。 ユウナは目を左右に走らせた。灰色の外套に身を纏った私兵が数人、床に倒れている。外傷がないところを見ると、グエンは彼らの命を奪ってはいないようだ。 同情するのは間違いなのかもしれない。けれど、巻き込めない、と。ユウナは唇を噛んだ。 サーラだって、それを知っている。そして、守ろうとするだろう。闘技場で私兵たちを力で押さえつけることも出来たのに、それをしなかったサーラの優しさがきっと守ると確信できるから、ユウナは唇を噛む。彼女が背負う負担が大きすぎる。 ディアの唇がゆっくりと動く。 「<――覇王に、道を開けよ!>」 言葉は魔法呪文となって、城を揺るがした。足元を掬われ転びそうになるユウナの右腕をグエンが、左腕をサーラが掴んで支える。 二人に両側を固められて、顔を上げればディアの後方の壁は崩れていた。作り物かと思い違いをしそうな、場違いな青空がディアの背後に広がっている。そこから流れ込む風が渦を巻き、ディアの漆黒の髪をなぶる。 バサバサと騒々しい音が聞こえたかと思うと、青空を覆い隠す黒い影。両翼を羽ばたかせる魔翼鳥がそこに現れた。 魔人二人に――うち一人は、完全に戦意喪失しているようだが――魔翼鳥。 それらを相手にするのは幾ら三人が揃ったとしても、荷が重い。目眩を覚える。足元が揺らぐ。 それでも――僕たちは負けられない。 この国の人たちを助けなければならない。そのために、グエンはジェンナの命に手を掛けた。 ユウナは諦められない現実を思い出して、再び顔を上げた。グエンとサーラの腕を解いて、自分の足で己の身体を支える。 そうすると、ディアが横顔でこちらを見下してきた。 「――証を立てろといったな、サーラ」 「ええ」 「ここは退いてやる。お前を殺すのを、次の機会に譲ってやる。それが証だ」 「…………どうして?」 ユウナは知らず問い返していた。 今、この場ではディアの方が絶対的優位だ。なのに、退くという。 魔族はいつだって、絶対的優位な立場から人間たちをなぶってきた。絶望を見せ付けて。希望を叩き壊して。 魔族が人間相手に行ってきた蛮行を省みれば、ディアの行為は理解を超える。 困惑に目を瞬かせるユウナの視界で、 「――それは俺がお前たちを殺すからだ」 ディアは確信に満ちた笑みで答えた。 この場でなくとも殺せる、と。 過信ではなく確信するから、ディアは侮辱を許さない。不意打ちのようなこの場の戦いを認めないのだろう。 苛烈なまでに高慢な彼は自分の力を知っているから、先のバゼルダ村での一件もあっさりと身を退いた。何が無様であるのか承知している。 「俺が殺すまで、死ぬなよ――サーラ」 蒼い瞳で睨みつけ、一方的に言い放って、ディアは踵を返し、壁の穴へと向かう。 その瞬間――ディアの黒い背中に振り下ろされる銀の軌跡があった。 |