― 18 ― 肉を貫かれた瞬間、死んだと思った。 目を見開いているのに暗転する視界の向こうから、グエンの声が届く。 『――もう、お前は死んでいろ。ジェンナ』 次に感じたのは胸への圧迫と、衝撃。身体を刺していた異物が抜かれ、背中を壁に叩きつけられた。骨が軋み、息が詰まる。身体が痺れる。 なす術もなく床に転がって、ジェンナの意識は、闇に落ちた。 闇の中にいたのは、どれだけの時間だったか。 刹那のようにも久遠のようにも思えた。 意識を取り戻したジェンナは、寝転がったままの姿勢でグエンが刺し貫いた傷口を指でなぞった。 痺れるような痛みが存在したが、あまりにも鮮やかな切り口故に、傷口を固まった血が塞いでいた。失血死を心配する必要はない。 (――死んでいろって?) グエンのセリフを思い出して、ジェンナは唇の端から失笑をこぼした。頬を預けた床に落ちていた埃が、微かな空気の流れを察して踊った。 (……冗談だろ?) どう考えたって、この傷では死ねない。ご丁寧に内臓も傷ついてはいない。 ディアの視線が逸れた一瞬の隙を突いて、銀の剣は骨と骨の間、内臓と内臓の間を綺麗に刺し貫いた。傍目には大ダメージを与えたように見せかけて、その実、最小限の傷でおさまっている。 神業と称するに相応しい鮮やかさで、グエンはジェンナ以外の全ての者の目を偽り、騙した。 『――死んでいろ』 それは死んだフリをしていろ、ということなのか。 ジェンナは明瞭になっていく意識を支えに目を凝らして、状況を観察した。 完全に自失しているエステナの背中越し、ディアがグエンたちに向かって咆えている。 その言動を察すれば、ディアは自分の力を確信して小細工を潔しとしない。 裏で暗躍するにしても自らの手を汚す。決して、人任せにしない。 その性格を知っていたなら、エステナと組んだりはしなかったと、後悔がジェンナの内側で嘲笑を生んだ。 組んだとて。組まなかったとて。 (――何も変わらないじゃないか) ジェンナは骨が軋む腕を動かして、ゆっくりと上体を起こす。誰もこちらに気付かない。無理に動いたからか、腹部の傷が鈍く疼く。 ディアが魔法を放って、壁に大穴を開けた。その振動が、ジェンナを揺さぶる。壁に叩きつけられた際の打撲が悲鳴を上げた。胸を押さえて、そっと苦痛を吐き出す。 近くの壁に爪をたてて、ジェンナは立ち上がった。 壁に背中を預けて、傾ぎがちになる身体を支える。 額から滲み出た冷や汗が流れ、目に入ってきた。歪んだ視界でディアの横顔を見やる。 全く、こちらに気づいている様子はない。 完全にこちらの存在は視界からも感覚からも除外されている。忘れ去られている。 ディアにとって、ジェンナもエステナも所詮は、簡単に忘れ去られる程度の存在だった。場を盛り上げるならよしとして、使えないなら要らない。 彼が求めるものは、力だ。頭ではない。 だとすれば、差し出せるものをジェンナは持っていない。 ディアはジェンナとの取引に応じない。 今まで散々、人間たちを欺いて守り続けたただ一人の血縁を、もう守ることは出来ない。 後は、妹がディアのご機嫌を損なわないことを願うばかりだ。 もう、自分には何も出来ない。 絶望がジェンナの内側に暗く滲んでいく。 (――どこで、間違えた?) 重たい瞼に目を伏せて、ジェンナは自問した。 ずっと続くと思っていた日常は、両親を魔族に殺されたことによって瓦解した。 魔族への復讐と妹を守るために、ジェンナは冒険者となった。家を失ったジェンナには、己の身でしか、糧を得る術がなかったから。 なのに、気がつけば魔族の庇護に甘えるようになっていた。 妹を守りたい一心で――そう言い訳すれば、聞こえはよい。でも、本当は自分が傷つきたくなかっただけではないのか? (なあ、シェリス。オレは本当にお前を……守れたか? 守っていられたか?) ジェンナは瞼の裏に、妹――シェリスの面影を見る。 金というにはくすんだ髪の色は枯れ葉色。地面に朽ち落ちた葉のような色をした瞳。決して、美しいとは言えないけれど、何よりも血縁を感じさせる色彩に彩られた面差し。 ガデンはシェリスの顔にジェンナと同じように、刺青を刻もうとした。 それだけは止めてくれ、とジェンナは土下座して懇願した。如何に、進んで奴隷になったとはいえ、女の顔に傷をつけるなんて。 あまりに必死なジェンナの様子にガデンは興ざめしたのか、妥協してシェリスの白い両手の甲に黒い花の文様を刻んだ。 乱暴に刻まれた奴隷の証。赤く腫れ上がった手の甲の痛みに泣きながらも、シェリスは「生きていられるだけ、良い方だ」と、ジェンナを慰めるように言った。 肩身狭い思いをさせてまで、生きることを選んだ。 汚れながらも、今日まで生きてきた。 (オレは……お前のために、何が出来る? ……シェリス) 心の中で妹に呼びかけて、じわじわと染みてくる絶望を前に、ジェンナは唇を噛んだ。 (これは――罰かよ) ガデンが死んだことは、裏切り続ける限り安泰だと、現実に目を瞑っていた自分への罰か。 状況を変えようと努力せず、逃げ出すことも出来ず、同胞たちを犠牲にしてきた。奴隷となって使役される人間たちを嘲笑ってきた。 今さら、誰にも許しを請えず、助けを求めることも出来ない。 後は……流れに身を任せるしか、ジェンナには何も出来ない。 そう、出来るとしたら死んだフリぐらいだ。 (……オレだけ……生き残るのかよ?) ディアに殺されるかもしれない妹を見捨てて? 後は――本当に死ぬか。 唇が自嘲に歪む。 (傑作だな。生きていても死んでも、どっちも死体かよ。……でも、オレにはおあつらえ向きの役フリか) 壁を押して、ジェンナはゆらりと、幽鬼のように歩き出した。床に転がっていた剣を拾う。 (――これは最後の賭けだ) この切っ先が、奴に届くか、否か。 顔を上げて、手のひらに剣の柄を強く握りこむ。薄い唇を噛んで、ジェンナは地面を蹴った。 振動が傷を叩く。血液が燃える炎を飲み込んだように熱い。激痛が身体中を駆け巡る。こんな酷い痛みは、初めて知る。 裏切りを知ったときから、この身体が傷つくことはなかった。 傷ついたのは裏切られた冒険者たち。捕らえられ、牙を抜かれて、拷問を受けた。最終的には処刑された。 (――死ぬっていうことは……) 生きるということは――こういうことなんだな、と。痛みに痺れそうな意識でジェンナは理解した。 『――弱肉強食、オレってガキの頃から世界を知っていたんだよ』 そうユウナに嘯いたけれど、本当は何も知ってはいなかった。弱くても、窮地では牙を剥けるということを。 己の無知が可笑しくてしょうがない。嘲笑うべきはいつだって、自分自身だった。 せめて、あの時――三年前。 グエンとガイナン――あの二人の力を信じて、助けを求めていたら何か変わっただろうか。 妹を……シェリスを救ってくれ、と。 裏切りではなく、信頼を預けることが出来ていたならば。 未来は――。今は――。 最後の力を振り絞って剣を振り上げる。そして、無防備に見えた黒い背中へと振り下ろす――刹那、グエンの声が鼓膜に触れた。 「――馬鹿っ!」 叱咤するその声が、ジェンナがこの世で最後に聞いた音だった。 * * * 「――馬鹿っ!」 ジェンナへの叱責がグエンの喉を突いて出たが、完全に遅かった。元々、ジェンナの攻撃は鈍すぎた。 振り下ろされる剣の軌跡がディアの背中に落ちる前に、黒い肢体は脇へと逃れていた。肩越しに振り返った秀麗な顔に浮かぶ狂気は、蒼い瞳にジェンナを映すと、酷薄な微笑を唇に浮かべた。 愚か者を笑って、伸ばした爪はジェンナの身体を貫く。 指は心臓をわし掴みにするようにして、骨を砕き、肉を突き破る。肉体から解放される赤い命の奔流は、ジェンナの魂を、永遠に暗い死の底へと攫って逝く。 「見逃してやらんでもなかったがな」 ディアは事切れた死体に吐き捨てて、ジェンナが固く手に握ったままでいる剣を引き抜くと腕を一閃させて、放り投げる。 「俺のサーラに余計な手出しをした褒美だ――受け取れ」 空を裂いて矢のように飛んだ銀の刃は、茫然自失のエステナの心臓を貫く。 「――――っ」 悲鳴を上げる間もなく、エステナは絶命し倒れた。 「ああ、お前の魔翼鳥は俺が貰ってやる」 死体に向かって、ディアはせせら笑った。 最初から、エステナを許す気などなかったのだろう。ただ、サーラに執着する心が、ディアをこの地まで動かしただけだ。 瞬く間に、魔人と人間の命を奪った死の使者はつまらなそうに、ジェンナの身体を投げ捨てた。 血に染まった指を払えば、爪の先から鮮血が散り逝く花の花弁のように舞った。 ゴミのように無造作に捨てられる死体を前に、ユウナが息を飲む。 サーラは、震える少年の視界を塞ぐように、ユウナの頭を己が胸に抱き寄せた。 グエンは――ただ静かに唇を噛んだ。 今、感情で動いてはユウナとサーラを危険に巻き込む。ディアが退くというのだ、黙って見送るのが二人のために得策だと、グエンの頭は冷静に計算する――計算できた。 自分でも驚くくらいに、頭の中は澄み切っている。 心は、感情は、混濁し渦巻いているというのに。 何が一番大切なのか、それだけは痛いくらいに解っている。 敵が減ったとして、動揺しているユウナにいつもの働きを期待するのは酷だ。この場では他の人間を巻き込むから、必然的にサーラの負荷も大きければ、不用意に動けない。 蒼い瞳がグエンを見下ろして、笑う。 こちらの動きを満足そうに見やって――ここで動くことの無謀を理解できるグエンの冷静さは、彼の望むところだろう――背中を向ける。 黒い影は壁に開いた穴から外へと、空へ舞い、魔翼鳥に跨る。 羽音の騒々しさがずっと遠くに去って、グエンはようやく動いた。ジェンナの死体へと歩み寄った。 見開かれた土色の瞳はガラス玉のように、覗き込むグエンの姿を映す。その目を指で伏せながら、グエンは喉の奥から混沌とした感情を吐き出した。 「――――馬鹿が。死んでいろって、言ったのに」 死の静寂に満たされた謁見の間に、ギリッと奥歯を噛み締める音が響いた。 * * * 人間の骸の冷たさが、衝撃的だった。 血の流れが、鼓動が、魂が、体温が――ないというだけで、あんなにも冷たくなるのか。 ユウナはジェンナの死体を担ぎ上げるグエンに手を貸したときのことを思い出して、ギュッと己が指を握り込んだ。冷たい皮膚のざらついた感触を指先が記憶している。 そうしてユウナは、サーラと繋ぐ指先の温もりの尊さを改めて実感した。 サーラは、ジェンナの死をどのように感じているだろう? いつものように冷たい瞳で無表情に、亡骸を眺めていたけれど。 きっと、心の内側ではユウナが想像もつかないような葛藤があったと思う。 蘇生魔法を使える彼女には、ジェンナを生き返らせることも出来たのだ。 だけど、その魔法を使わないと、心に誓っているサーラは、死者を蘇らせるのではなく、生きている者を守ろうと己の身を削る。削ってきた。なのに、生きる者を守れずに目の前で死なれてしまった。 自分の力不足を自覚して止まないユウナでさえ、今以上に感じる無力感。サーラが背負った感情は、きっと自分の比じゃないと、彼女の優しさを知るだけに確信出来てしまう。 瞳を上げれば、薄紫色の視線が気遣うような色合いを重ねて、無言で振り返ってきた。こんなときでも、サーラはこちらを配慮してくれる。 ――僕は大丈夫です、と。 ユウナはサーラに無言で頷いて見せて、黙々と墓を掘るグエンの背中に目を移した。 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、言葉を掛けることをはばかる、見えない壁がそこにあった。 辺りは夜の帳が降りて、闇に沈もうとしていた。地上の動向など知らないと言いたげな星たちが、天上で己の美しさを競うように煌めいている。 ザクザクと土を掻く音が止んだ。グエンが足元に作った穴から出て、傍らに置いていたジェンナの死体を移動させた。 苦行に耐えるような面差しで、グエンは手のひらに掬った土をジェンナの上にこぼしていく。それは藍色の瞳から溢れそこねた涙のように思えた。 死体を前にグエンは、ジェンナがガデンという魔人に人質にとられた妹のために、冒険者たちを裏切っていたことを教えてくれた。 『許すとか、許さないとか。そんなんじゃなかったんだ』 言い訳をするように、グエンはジェンナを殺したように見せかけた芝居の一件を語った。 『ただ、もういいと思ったんだ。生きている限り、妹を守り続けて、俺たちを裏切って。救いも求められないのなら、その鎖を解いてしまえと思ったんだ』 鎖というのは、ジェンナが必至に守り続けた妹のことだろう。 ジェンナはグエンと戦うことで、ディアに妹の命を請うたという。ディアがそれをどう受け止めるつもりだったかは、わからない。 グエンを倒すか、グエンの剣にジェンナが倒れたとしても、そこまで命を投げうったジェンナの心意気を買ってもらうか。 ジェンナに選べた選択肢は二つ。そうして、グエンが選べた答えは一つ。 グエンには、ジェンナのために死を選んでやる義理がなければ、彼を殺してやるしか出来なかったのだと、囁いた。 『本当に殺してやろうかと思ったよ。もうアイツ自身は、生きることを諦めていたように見えたから』 でも、ユウナたちの登場でディアに隙が生じた。グエンはその一瞬に賭けて、ジェンナに偽りの死を演じさせることにしたという。 『どんなに絶望的な環境にあっても、それでも生きていれば良いことがあることを、俺は知っていたから――なのに、この馬鹿』 侮蔑交じりの言葉を吐いて、グエンはジェンナの死体を見下ろす。その横顔に、ユウナはこぼれそうになる涙を、唇を噛んで堪えた。 死という悲しみを前に、涙を流すことは恥ずべき行為じゃない。でも、本当に泣かなければならない人の代わりに、自分が涙を流すのは間違っている気がした。 ジェンナのことは決して心許せる相手ではなかったけれど、彼の事情を知ったなら、もっと話し合っていれば良かったという後悔が、ユウナの心に爪で引っ掻いたような傷を残した。 傷跡は、付き合いが長かったグエンのほうが深かっただろう。 『折角、助けてやったのに――最後まで、裏切りやがった』 そう呟いた彼の声に滲んだ悔恨が、それを物語っていたから。 |