― 19 ― ディアが去った後、ユウナたちはエステナの私兵を動けないように捕縛し、支配され使役されていた奴隷たちを解放した。 真の“解放軍”に、この国の今後を預けて王宮を後にし、グエンは冷たくなったジェンナの死体を背中に担いだ。 街中を過ぎるとき、誰もが見てはならないものを目にしてしまったかのように、グエンから視線を逸らしたのを覚えている。 〈ゼロの災厄〉に悩まされるこの世界では、死はすぐ傍に、隣り合わせに存在している。でも、誰もがそれと面と向かって向き合うことが出来ずにいる。 死ぬという現実を受け入れてしまったら、未来を望めないからか。 ユウナたちは国を取り囲む山の一つを登った。 もうその頃には、完全に陽は落ちていた。夜気よりずっと冷たく凍えた亡者を背負って、無言で歩いた。 見晴らしの良い場所を見つけて、グエンはジェンナの墓を作る。 穴を掘り、遺体を埋めて土を盛る。墓標代わりにジェンナの剣を地面に打ち立てた。冷たい銀の刃が星明りに白々と輝く。 グエンは藍色の瞳にその光を映して、声をこぼした。 「――やっぱり、死にたかったのかな、ジェンナは」 諦めたように呟く彼のその声を聞けば、ユウナは反射的に叫んでいた。 「違いますっ!」 淡い茶色の髪を乱しながら、ユウナは首を振っていた。 「……ユウナちゃん?」 振り返ったグエンが少し驚いたように、目を瞬かせているのが見えた。ユウナはそんな彼を真っ直ぐに見つめ返して、訴えた。 「ジェンナさんは生きようとしたんです。未来を欲したから、戦おうとしたんだと思います」 ジェンナの行為は、一見すると死を受け入れた故の自暴自棄のようにも取れた。ディアの支配下にある妹を助け出せない絶望から、殺されるために動いたようにも思える。 グエンは、そう思っているのだろう。 ――でも。 ユウナは違うと、思った。 『――弱肉強食』 そう言って、強い者に巻かれ、弱い者を平然と裏切れるジェンナだったならば、幾ら血縁とはいえ、ただ一人の人間のために命を投げ出せただろうか? 裏切りに汚れ、人を嘲り笑うことしか出来ないジェンナだったなら、きっと、あのまま死んだフリをしていた。 演技をやめて、ディアに立ち向かったのは、どこまでも家族を思ったからの現われだ。 軽薄そうに見えたけれど、ジェンナは裏切りという罪を背負い、耐え忍ぶ生き方を選んだ――我慢強い人間だった。 最低な日常の底で、それでも生きていればと、希望を抱き続けた人だった――と。 ユウナは今なら言える。彼の最期を見届けたから、言う。 例え、世界中の全ての人間を敵に回しても、ジェンナは絶望ではなく希望を信じていた。 未来を夢見たからこそ、ディアへとジェンナは刃を向けた。 ディアに媚びるつもりだったのなら――妹のために自らの死を捧げるつもりだったのなら、その剣はグエンへと振り下ろされるはずだ。 でも、ジェンナはディアに向かった。妹を縛る鎖の根元を断つべく、ジェンナは剣を振るった。 その行動は、死に急いだのではないと、ユウナは言葉を重ねてグエンに訴えた。 彼は自らの手で、己の未来を勝ち取ろうとした。 「生きるために……戦ったんです、あの人は。……大事な人の未来を守るために」 言葉を紡ぎながら、これは自分の感傷なのだろうか? と、ユウナは自問する。 こぼれそうになる涙を堰き止めるために塞いだ瞼の裏で、ジェンナの面影がこちらを嘲笑うように唇を歪めていた。 勝手なことを言って、と。怒っているようにも、泣いているようにも、見えた。 嘲笑の仮面の裏で、ジェンナが何を思っていたかなんて、わからない。 ――わからないけれど。 「……うん、そうだね」 夜気に冷え凍った髪を溶かすように、温かく大きな手のひらがユウナの頭を撫でた。 「未来を信じているから……大切な人がいるから……俺たちは戦うんだよね。あいつも、同じように剣を握ったんだね」 「――はい」 頷いて、ユウナは顔を上げた。 サーラと繋いだ指先の体温。グエンが撫でた指先の温度。繋がって、触れて、感じる温もり。かけがえのない尊きもの。 絶対に失くせない――亡くしたくない。 大切な人を想う、胸を焦がすこの熱は、ジェンナが教えてくれた。 裏切りだらけのジェンナの中で、それだけは真実だった。 * * * 『……いつまで、ここに居ていいの?』 決死の覚悟でそうグエンが問いかければ、予測どおりの答えを、カレナは赤い唇を緩めて微笑と共に返してきた。 『――いつまでも』 ……それじゃあ、駄目なのに。 グエンはギュッと、奴隷の刻印を隠すように包帯を巻いた己の右腕を掴んだ。焦れた心が指を動かし、爪を立てそうになるのを、カレナが制す。 『グエン、焦らなくていいんだ』 カレナの指先がグエンの左手を解き、右腕を包帯の上から撫でた。 『お前が何かを決心しようとしているのは、わかっている。それを止めるつもりはない。お前はお前が好きなように生きればいい、幸せになるために』 『幸せなんて……』 『もう望めないか?』 カレナの橙色の瞳を見上げて、グエンは首を横に振った。 幸せなんだ。 ジスタとガイナンに助けられたこと、カレナとユウナに出逢えたこと。 暗い檻に囚われていた頃には、守りたいと思える人間に出会えるなんて思い至らなかった幸運。今を幸せじゃないと言ったら、罰が当たる。 この安穏とした日常にずっと浸って、甘えていられたら、もう何も要らない。 でも、いつまでもこの日常が続くわけないことをグエンもカレナも知っている。 次の〈ゼロの災厄〉が、新たに刻一刻と近づいてくる。そうして、先の〈ゼロの災厄〉が今もなおこの世を苛み続けている。 今、この家にジスタがいない。ガイナンがいない。その意味を考えれば、グエンが手に入れた安寧は白日に見る夢のように儚い。現実に目覚めてしまえば、終ってしまう。 グエンは許されるのならずっと夢の中にいたかった。だけど、現実は忙しなく巡り、いつまでもこのままではいられないのだと、揺り起こそうとする。 だからグエンはカレナに問いかけた。 ――いつまで、ここに居ていいの? と。 現実を突きつけられたら、グエンも諦めが付いた。諦めざるを得なかっただろう。 なのに、カレナは『いつまでも』と、こちらを甘やかすようなことを言う。まどろみのなかでゆっくり眠っていろ、と囁く。 『心がどれだけ覚悟を決めても、身体が動かないこともある』 グエンの右腕から指を離して、カレナの手はスカートの影に隠れるようにしてこちらを覗いていたユウナの頭に触れた。 頭を撫でられたユウナはくすぐったそうに、身体を左右に揺らした。柔らかなラインを描く頬がピンクに染まる。花開くように綻ぶ唇から、キャッキャッと愛らしい笑い声が音楽を奏でるように響いた。 幼い我が子をカレナは目を細めて見つめ、同じように愛情を満たした瞳でグエンを見下ろしてきた。 『ユウナは、いずれ冒険者になるだろう』 『……え?』 前置きもなく、カレナは端的に告げた。どうにも彼女は、自分の中で出した結論を全ての人間が知っているというような前提で話をする。故に、言葉の不足を補おうとしない。 訳がわからなくて、目を丸くするグエンを余所に、カレナは続けた。 『そういう子だ。でも、今はどう考えたって冒険者にはなれない。わかるだろう?』 これは例え話……なのかな。 グエンは困惑しながらも、問い返した。 『ユウナを冒険者にするの?』 冒険者としての危険を承知で、己が子供をその道へと送り出すのか? カレナの豪胆な性格がそうさせるのだろうか。 『ユウナがそれを選ぶだろう。私とジスタの血を引くからな』 グエンが頬を傾けると、カレナは首を振って意味不明のことを言う。カレナの中ではそれで筋が通っているらしい。 わかるような、わからないような。 首を傾いだままでいると、流石にカレナも言葉が足りないことに気づいたらしい。苦笑して、言い訳するように語った。 『私の……父と兄たちは冒険者だった。私は傷だらけになりながら、戦う兄たちを黙って見ていられない性分だった。ジスタも誰かが困っているのを見て、放って置けないお人好しでな』 魔獣を狩りに出かけた夫を想うように、橙色の瞳が揺れた。 今すぐにでもジスタの後を追って飛び出しそうな、そんな気配が窓の外へと向けられた横顔に垣間見える。 『そういう血筋だ。止めろと言ったって――』 ジスタへと思いを馳せていた視線を戻して、カレナはユウナを抱き上げた。 ユウナはキャッと可憐な笑い声を立てて、カレナの頬に自分の頬を擦り付けた。小さな身体で、溢れんばかりの愛情を表現する。 これが答えだと言わんばかりに、 『――いずれ、きっと。ユウナは冒険者になると言い出すだろう』 カレナはグエンを見下ろすと、しょうがないと言いたげに肩を竦めた。 ユウナの真っ直ぐな愛情は、カレナの言葉通りに、両親が命を脅かされながら築き上げた安穏を諾々と貪ることをよしとしないだろう。 曇りのない杏色の瞳を見れば、グエンにもユウナが選ぶ未来が見えた気がした。 『……それでいいの?』 『よくはないさ。ユウナが戦わずに済むように、私たちは戦っているんだからな』 『うん』 『でも、この世界から〈ゼロの災厄〉はなくならない。百年の理が崩れない限り、また新たな災厄が渡ってくる』 『…………』 『だが、不幸を嘆くばかりじゃ能がない――ならば、強くなるしかないな』 一足飛びに結論が引き出すのは、カレナの性格なのだろう。 だけど、カレナの言いたいことはグエンにも理解できた。 『……うん』 強くなりたい。甘えずに、自分の足で立ちたいと思う。守りたい人たちを見つけてしまったから。 それでも、この優しい夢を手放す決心もまだグエンには付きかねる。 『焦らなくて、いいんだ』 グエンを諭すように、言った。それはカレナ自身の他にも、ユウナに向かって語りかけているようでもあった。 『いつか、その覚悟を必要とするときは来る。どんなに拒否したって、ユウナは大人になる。お前もな、グエン』 『…………』 『それまでは、ここにいろ。私が――私たちがお前を守ってやる。家族とは、そういうものだ』 『……家族?』 カレナの腕が伸びてきてグエンをその胸に抱き寄せる。 『――家族だろ?』 柔らかい温度に抱かれながら、グエンはおずおずと頷いた。 守りたいと思う気持ちが絆を繋ぐのなら、グエンは新しい家族を手に入れた。 もう二度と失くしたくない、大切な人たち。 * * * いつまでも立ち止まっていられない。 これから先のことを考えれば、問題は山積みだ。ディアのサーラへの強い執着は、時間の風化を当てにしてはいられないと思わせた。 ディアはどれだけの時間を費やしても、己が満足する形でサーラを手に入れようとするだろう。 その満足の形が、彼のプライドによってもたらされるのなら、不意打ちの強襲はない。今までのように周りに気を使いながら旅をしなければならないという、負担は減った。 ただ、逃げることだけは出来ない。それだけは、絶対にディアは許さないだろう。 ならば、ディアに勝てるだけの能力をつけなくてならない。そうして、彼を倒してサーラはディアの呪縛から自由になれる。 その過程で、ジェンナの妹も助けられるだろうか? こればかりは、運に任せるしかない。もうこの瞬間にも、ディアはジェンナの妹の命を奪っている可能性もある。 望みを繋ぐとしたら、ジェンナの妹の存在を傍に置くことで、こちらの動きを誘導できるとディアが考えてくれたら。 ディアから逃げ出すのではなく、彼女を助けようと動き出すこちらに、彼が満足してくれたら。 ジェンナの妹の命は繋がっていられるかもしれない。グエンとしてはその可能性に賭けるしかない。 もうそれしか、ジェンナに手向けられるものはなかった。 グエンはジェンナの銀色の墓標から目を逸らして、背を向ける。 「――行こうか」 ユウナとサーラにそう言って、歩き出す。 今宵はこのまま休んだ方が良いだろうけれど、ジェンナの墓の前ではユウナも色々と考えるところがあって眠れないだろう。 サーラもそれを見越しているのか、コクンと頭を頷かせる。 そうして、二人の前に立って先行しようとしたグエンに、ユウナが声をかけてきた。 「待ってください、グエンさん」 声に緊張が伺えた。肩越しに振り返ると、少女のような面差しは頬が強張り、唇がきつく結ばれていた。その唇が、微かに震えると、決心を吐き出すように声が響いた。 「――あの、……僕、グエンさんの力になりたいです」 一言こぼすと、ユウナの顔は泣きそうに崩れた。 「僕はまだ子供で、グエンさんにしてみれば頼りになんか……ならないと思うけれど」 自分の幼さや無力さを恥じているのか、緊張が解けると同時に、ユウナは俯いた。声がか細くなる。 「……そ、それでも……あの」 杏色の瞳がゆっくりとグエンを見た。真っ直ぐに差し向けられる曇りのない眼差しは何の裏も表もなく、その言葉の意味をこちらに伝えてきた。 「僕はグエンさんの力になりたいです。……だから、グエンさんの過去を聞いても……いいですか?」 |