― 4 ― 「何ですってっ?」 私の喉から飛び出た素っ頓狂な声に、フタバは笑った。 アハハっと声を響かせて、快活に笑えば、白い歯が見える。 大人っぽく落ち着いた雰囲気を漂わせていたフタバだったけれど、こうして見るとそんなに年の差を感じさせない。 ――って、そんなことは置いておいて! 「こ、婚約を持ちかけたのがフタバって――」 天地が逆転するような告白に、私は言葉が続かない。 ちょっと、待って。そうすると、何? ハゲ親父への恨み事は、全てフタバに向けられるべきものだったの? 「何で?」 思わず立ち上がりそうになって、車内であることを思い出す。 いくら、ゆったりした空間と乗り心地を売りにしている高級車といっても、立てないわ。 興奮から現実に立ち返れば、私の中で渦巻く感情も行き場を失って、ただただフタバを見つめ返す。 「僕がいない間に、貴方を誰かに盗られたら、困りますから」 「――は?」 わけがわからないわ。 っていうか、サラリと凄いことを言われた気がするんだけど、気のせいよね? 「どうすれば、ミキさんを幸せに出来るだろうと考えたんですよ、貴方と出会ったその日の夜に」 「それで、婚約?」 「いえ、いくら僕でもそこまで短絡ではありません」 やんわりと、首を振ってフタバは否定した。「そこまで」って嫌味かしら? それとも、別の意味? 何だか、深く追求するのが怖いから、聞き流そう。 「でも、僕もまだ子供でしたから」 母の葬儀の日というと、私は八歳だったから、フタバは十四歳。中学生ね。 六つの年の差も、小学生と中学生という枠組みの中で考えると、意外とそんなに離れていないような錯覚を引き起こすわね。 私がこだわるほどに、年の差なんて関係ないのかもしれない。 「貴方が気にしていたお父様の、お役に立てれば、ミキさんも安心するかと思いまして」 「……それで」 「お役に立とうとするのなら、やはりそれなりに勉強をした方が良いかと思い」 「――留学?」 私の言葉に、ニッコリとフタバは笑った。子供みたいに、笑うのね。 「直ぐに、実行に移したかったのですが、年が年でしたので。母がもう少し待て、と。弟たちも僕を慕ってくれていたので。それで、高校生になってから」 フタバは、私のために自分の未来を決めたの? そこに迷いはなかったの? 「留学準備を進めていたとき、父とお父様が、お酒を飲みながらお話しされているのを聞いたんです。お父様は自分に何かあったら、会社を吸収してくれても構わないから、ミキさんをよろしく頼むと。それは嫁に貰って良いということかと、父が問い返しましたら。いざとなったら、それも止むなしと……かなり酔っていらしたようですが」 ――結局、ハゲ親父のせいじゃない? っていうか、酒の勢いで娘の一大事を勝手に決めないでくれる? 小心者だから、そんな勢いでもないと言えなかったでしょうけれど。 「冗談じゃないわっ!」 歯噛みする私の前で、フタバは微苦笑をこぼした。 「僕にとっても、冗談ではありませんでした」 「――えっ?」 「留学している間に、僕以外の誰かに、ミキさんを盗られたら困りますから」 私はモノじゃないわ! そう、反発したかったけれど、フタバの目を見たら言えなくなった。 真っ直ぐな視線。一途に私だけを見つめてくる、その瞳の熱は嘘じゃない。 ……この人は、本当に私を好きでいてくれるんだ。それが伝わってくる。 これだけ好きになってもらえたら、幸せだと思う。だけど、飛び込めないの。 この人の想いに見合うだけの、想いを私はまだ持っていない。 第一に、私はまだ中途半端なままじゃない。 この人の隣に立つ自分を恥ずかしいと思えなくなるような、大人にならなきゃ。 だから、結婚は出来ない。婚約という形で、この人を縛ることもしたくない。 もしかしたら、この人にはもっと素敵な人が現れるかもしれない……そんなことを考えてしまう時点で、私はフタバに対して、本気になっていない。 「婚約という形は、僕が留学を終えるまで、ミキさんに余計な虫がつかないように、僕からお父様にお願いしました」 「ハゲ親父はすんなり、承諾したの?」 フタバは少しだけ顔を伏せ、声をひそめるように言った。 「……ハゲと言うのは、可哀そうですよ。存外、男性にとっても髪は命ですから」 ハゲ親父に同情する必要なんてないわ。 っていうか、小心者なんだから髪の毛の心配だけ、していればいいよっ! 「反対されましたよ。きっと、逆効果になるって」 私のことをわかっている癖に、何でハゲ親父は酒の勢いとはいえ、結婚話なんて持ち出しているのかしら。 「それでも、婚約したのは何故?」 「僕のことを知られずに、誰かに奪われるより、マイナス感情でも僕のことを知っていて欲しかったんです。少なくとも、ミキさんは婚約者としての僕の存在を意識せざるを得ないわけでしょう? 多少の反感は予測していましたが、ここまでとは」 フタバの手が持ち上がり、私の髪をひと房、指に絡めた。 「だけど、僕の想いはわかってくださいますよね?」 この人、本気で天然のタラシだと思う。 普通、そんなに気易く女の子に触っちゃダメなのよっ! 目の前に近づいたフタバの顔に、私はバクバク心臓を鳴らす。フタバの手を振りほどきたいけれど、駄目だ。 心が。神経が。自分の指先すら動かせないほど、動揺している。 必死に顎を引いて、フタバから視線を逸らし、声を絞り出すのがやっとだった。 「――ダメ。まだ、婚約とか結婚とか……そんなの早いわ」 流されちゃ駄目。私は私の未来を自分で決めるんだから。 「僕が嫌いですか?」 フタバが訊ねてくる。 もう、聞くまでもないでしょ? 嫌いじゃないから、こんなに動揺しているんじゃない。 いくら、私に恋愛経験がないからって、嫌いな男に迫られたら飛び蹴りを食らわせるわよ。 だからって、誤解されたら困るからぶっきらぼうに言った。 「……嫌いじゃないわよ」 クスッと、小さな笑い声が頭の上で響いた。髪に掛った指が解ける。 「わかりました。それだけで、十分です。婚約は解消しましょう」 あっさりと言われて、私は驚いた。 「いいの?」 「元々、空白の時間を埋めるための手段です。この通り、僕は今、ミキさんの傍にいる。これからは、正攻法で距離を縮めて行きますよ」 あっけらかんと言われて、ちょっと拍子抜け。 婚約が決まってからの今日までの、私の反発はやっぱり子供染みたものだったと思わされる。 フタバは、簡単に気持ちの切り替えが出来るのね。 それが大人の余裕? それを証明するように、フタバは笑う。 「貴方に好かれるための努力なら、惜しむつもりはありませんから」 そうして、この人は異国の地で勉強してきたのよね。その道を選ぶのに、不安だってあっただろうに、この人は自分の「未来」を自分で決めた。十四歳の時だっていうから、私が今、迷っていることは言い訳には出来ない。 悔しいわ。私はフタバの視線一つで、動揺しているっていうのに。流されそうになっているのに。 「出ましょうか」 フタバに促されて、私たちは車から外に出た。すっかり辺りは、暗くなっている。ひんやりとした夜気が肌を撫でていく。 玄関に灯された明りにホッとしつつ、私は先に立つフタバに続いて、ふと思う。 同時に、同じことを思ったのか、フタバが肩越しに振り返って言ってきた。 「ああ、僕はこれからお父様の下で秘書として働かせて頂きながら、会社の経営を学んでいくつもりです」 「……そう」 「というわけで、お父様のお傍にいるのが一番ですから、同居は続けさせて貰います」 「……ねぇ、それって婚約解消しようがしまいが、結局のところ、何も変わらないってことじゃない?」 婚約解消の言葉に、騙された気がするのは、錯覚? 大体、フタバって人の話を聞いてくれるけれど――それは、最初に出会ったあの日から変わらない。子供だった私の話を、腰を折らずに聞いてくれた――だからって「はい」と頷いて、手を引いてくれるタイプじゃない。 自分の考えは、ちゃんと貫き通す――大人だ。 子供の私は、簡単に手玉に取られそう。 「そんなことはないと思いますよ。何故なら、婚約という保証がないわけですから、僕としてはミキさんの心を掴むために、積極的に迫らなければなりません」 玄関の前でフタバは立ち止ると、いきなり私を抱き寄せた。すっぽりとフタバの両腕に包まれて、私の頭の中は真っ白になる。 耳元にふわりと息が掛かって、柔らかな声が囁いた。 「――覚悟しておいて、くださいね?」 身体中の血が沸騰する。爆発する心臓。硬直する私の耳元で、フタバの笑い声が耳を撫でる。 負けてるっ! 完全に私、負けてるわっ! 解放された私は素早く、フタバから距離を取った。 開いた距離に、フタバの満足げな顔が見える。 フタバは確信しているんだわ。私を落とすことを。 「身体が冷えてしまいますから、中に入りましょう。それとも僕が温めましようか?」 「結構ですっ!」 反論する声が裏返って、響く。 くっ! 情けない。 私だって、乙女の意地があるわ。簡単に、流されてなるものですかっ! 負けないわ。 フタバが余裕をなくすような、いい女になってやるっ! ハゲ親父の鼻を明かすような、有能な女になってやるわよ。 私の未来は私のもの。 他の誰にも左右されずに、自分で結婚する相手を選んでやる――ああ、その相手がフタバになりそうな予感はあるんだけど。 何はともあれ、この決意だけは絶対に、譲ってやったりしないんだからねっ! 「始まりは、婚約解消 完」 |