― 2 ― シャリン、と。ドアベルが涼やかな音を奏でました。 夏の熱気を 「いらっしゃい、お一人ですか」 天河さんはご自分の役割を思い出し、お客様へと寄っていきます。 厨房の奥から、背の高い男性が現れました。巨体にパンダのような 「連れが一人。待ち合わせなんです」 そう言って、額に浮いた汗をハンカチで押さえつつ、店の奥へと移動する女性客をボンヤリと眺めて、日向さんは言いました。 「まだ、外は暑いみたいだね、ネコちゃん。もう少し陽が傾くまで、ここで涼んでよう」 そっと、わたくしの頭を撫でて、日向さんは解放してくださいました。 日向さんがチョコレートパフェを食べるのを見上げて、わたくしもまた、お皿に残ったドックフードを頂くことにしました。 残念ながら、甘い香りのするチョコレートを食べることは叶いませんでしたが、日向さんがわたくしの健康に細心の注意を払って選んでくださったことを知れば、嬉しくてよりいっそう美味しく感じられました。 全てを平らげまして、改めて、日向さんにお礼を言います。 「日向さん、ごちそうさまでした。とっても、美味しかったです」 ワンと鳴いて、一生懸命感謝の念を伝えるべく、尻尾をパタパタと振ります。 すると、 「そんなにチョコレートが食べたいの?」 日向さんは弱り顔でわたくしを見下ろしてきました。 やはり、犬と人間という種族の壁は、どんなに愛情があっても、なかなか超えるのが難しいようです。 「今度、犬用のおやつを探してみるから、それまで待っててね?」 それでも日向さんは、わたくしのために最善を施そうと、気を配ってくださる。 わたくしは何と、飼い主に恵まれた身なのでしょうか。 ご近所のお仲間さんたちの中には、お散歩さえろくに連れて行って貰えないものもいます。 それを考えれば、川原に捨てられ凍え死にそうになっていた我が身の不幸も、全てが日向さんに出会うための試練だったのだと思えば、辛さも、絶望も、良い思い出になります。 そう、しみじみと 乱暴なドアの開閉を抗議するような、悲鳴のような音に、わたくしと日向さんは揃ってドア付近を振り返りました。 すると、目にも鮮やかなオレンジ色のキャミソールにミニ丈のデニムタイトのスカートという服を着た女性が、何かを探すように店内を見回しています。 茶色に染められたと思しき長い髪を巻いて、目鼻立ちのハッキリした顔には薄化粧。すらりと伸びたしなやかな肢体。その女性は、テレビで見ます美しいお嬢さんたちに引けを取らない華やかさがありました。 そうして、女性は目的の人物を見つけたのか、声を掛けようとする天河さんを無視して、こちらへとピンヒールの 一直線に、店の奥へ。 床に居るわたくしなど、目には入っていないでしょう。 危うく踏みつけられそうになるのを察して、わたくしが日向さんの足元へと避難いたしますと、女性は初めて床に居たわたくしに気づいたようでした。 ギョッと目を剥いて、驚愕に身をすくめ、固まります。 その驚きように、わたくしが目を上げますと、女性の黒色の瞳と視線がかち合いました。バラ色の口紅を塗った唇が微かに震えたように見えました。 ……あっ。 このような反応を示される方々を、わたくしは知っていました。このお店では、日向さんは既に常連のお客さんとも顔見知りであったがために、わたくしの存在はかなり自由にさせて頂いていましたが……。 「何でこんなところに、犬がいるのよっ!」 女性の声は耳をつんざく怒号交じりの悲鳴となりました。 「何考えてんのっ? 信じられないっ! 怪我したらどうするのっ!」 カツカツと靴音を響かせて、女性は二歩ほど後退しました。 世の中には犬が怖いという方もいらっしゃいます。そんな方々にとっては、わたくしがどれだけ小さくても、恐怖の対象になるのです。 驚かせてしまったことを申し訳なく思いつつ、身を屈めていますと、日向さんの両腕がわたくしを抱き上げます。それと同時に、店の奥から先ほどの女性客が飛び出してきました。 よく見ますと、その顔立ちはこちらの女性とそっくりでした。着ているお洋服がパールグリーンのアンサンブルに白のシフォンスカート――日向さんのお母様が愛読なさっている通販雑誌で知りえた知識です――髪が黒くてストレートであること以外は。 ご姉妹なのでしょうか? その女性は、新たなお客である女性に向かって呼びかけます。 「アカネちゃん」と。 アカネと呼ばれた女性は、「ミドリ」と返しました。そうして、キッと唇を結びますと、不機嫌そうな顔のまま顎をしゃくりました。 「別の店に行くわよ」 そっぽを向いて、吐き捨てるように言いますと、アカネさんは シャリンシャリン――閉じたドアの向こうで響くベルの音に、呆然となっていたわたくしたちは我に返りました。 「何だ、あれ――」 天河さんは、お連れの方が居るというのを忘れているのでしょうか? アカネさんが出て行ったドアを睨みつけ、 「――騒音公害も甚だしいな」 そうぼやきました。それを耳にして、ミドリと呼ばれていた女性は慌てたように頭を下げます。 「ご、ごめんなさい。あの、アカネちゃんは悪気があったわけじゃなくって」 「――あ? ……別に」 天河さんは、恐縮したように頭を下げますミドリさんに、自分の失言を知ったようです。決まり悪そうに、眉を下げました。 場の空気がぎこちなくなりかけたところへ、のんびりとした声が割り込みました。 「優しい人ですね、さっきの。ミドリさんのお姉さんですよね? アカネさんって」 わたくしの頭上から響いたその声は、柔らかく場を和ませます。 「……えっ?」 微かに戸惑った呟きをこぼすミドリさんに、日向さんはお日様のような笑みを浮かべて言いました。 「双子でしょう?」 「……えっ? あ、ええ、あの……」 「あ、待たせたら悪いですよ」 ふと気づいたように日向さんの視線が動きます。わたくしが目で追いかけますと、道路に面したベガの窓の外、アカネさんがこちらを睨むようにして見据えていました。 「あっ……」 「俺たちのことは気にしないでいいです。アカネさんには、ネコのことを気遣ってくれてありがとう、って。お礼を伝えてください」 窓の外から店内のミドリさんへと視線を戻して、日向さんは笑います。 「……ネコ?」 ミドリさんはオウム返に、わたくしの名前を口にされました。 「俺の犬です。名前は、ネコ。可愛いでしょう?」 そう尋ねました日向さんに、ミドリさんが返してくださった笑みが、少しだけ強張っていたのは……恐らく、しょうがないことなのでしょう。 |