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 ― 3 ―


「お前、何で礼を言ってんだよ」
 カコンと、天河さんは手にしていたトレイを日向さんの頭に落します。
「痛っ!」
 小突かれた頭を抱えて、日向さんは声を上げました。
「何で殴るんだよ。それに、礼を言って何が悪い?」
 唇を尖らせて不満そうに、日向さんは天河さんを睨みます。その口ぶりは、殴られる理由がわからないと言いたげです。
 これには、わたくしも少し驚きました。
 あの女性……アカネさんがわたくしに対して発した言葉。それはわたくしの存在を厭うものであったように思います。
 天河さんは眉間に皺を寄せますと、縦にしたトレイを日向さんの胸元に突きつけるようにして言いました。
「それが訳わかんねぇってんだよ。確かにネコを放し飼いにしていたこっちが悪いけど、ネコが噛み付いたわけでもねぇのに、ヒスって騒ぎやがる女に謝る必要なんざ」
「――天河」
 カウンターの内側から満天さんが、たしなめるような声を発しました。天河さんは肩越しにそちらを振り返ります。
「日向君は謝っていないよ」
「――あ?」
 いつの間にか、「礼を言った」ことが「謝っている」にすり替わっていました。
「んな、細かい……」
 そう反論しながら、天河さんは眉間の皺をさらに深く刻みますと、グイッと不機嫌そうな顔を日向さんに寄せてきました。
「何で、礼を言ったんだ? あの場合、謝るならともかく」
 と、天河さんは言われますが、日向さんが謝っていれば謝っていたで、怒っている姿が想像できますのは、わたくしだけでしょうか?
 ですが、天河さんのお怒りが、わたくしに関わりがあったことだと知れば、少し嬉しくなりました。
 犬であるわたくしを前にして嫌悪感を覗かせたアカネさん。その感情は犬がお嫌いな方にしてみれば、極自然のものでしょう。
 しかし、何もしていないわたくしを前にして、声を荒げたアカネさん。この構図は犯してもいない痴漢行為によって、責められているかのようです――この例えは、先日、陽子お母様が見ていましたテレビからです。
 天河さんはわたくしにかけられた冤罪(えんざい)を敏感に感じ取って、代わりに憤ってくださったのです。
 天河さんはお口が悪いですが、とても優しいお方です。
 わたくしのような獣にも掛けてくださる情けに胸が熱くなります。
 ジンと、感動に打ち震えていますと、満天さんが口を開きました。
「それは僕も気になったよ。双子だとか、お姉さんだとか。……日向君、さっきのお客さんと知り合いなのかい? だから、あんなことを言われても気にならないの?」
 満天さんは不思議そうでした。
 その疑問は、日向さんがわたくしに分け与えてくださる愛情を良くご存知であるが故のものでしょう。
 日向さんは犬や動物を「所詮、畜生」と軽んじる人に、良い感情を持つことはありません。面と向かって敵対するということはありませんが、不機嫌さを隠すこともないのです。
「――二人とも、アカネさんがネコちゃんに怒っていると思っているんだ?」
 満天さんの問いかけに、日向さんは笑いました。その表情は合点が言ったと納得しているようです。
「あれは違うよ、アカネさんは犬が苦手だけど、嫌いじゃないよ。あの言葉だって、『こんなところに居たら、踏みつけられて怪我しちゃうから、注意しなさい』って、俺に怒っていたんだよ」
「注意力が足らなくてゴメンね」と。
 日向さんの声がわたくしに降ってきました。目を上げて、日向さんを仰ぎ見ますと、優しげな眼差しがそこにありました。
「――はあ? お前、善意に解釈しすぎだろ?」
 天河さんは苛立たしげな声を響かせます。
 常日頃、日向さんを甘いと言っている天河さんは、日向さんの好意的解釈が納得できないようでした。
「そうか? だって、アカネさんは言っていただろ? 『何考えてんの』って」
「それが?」
 満天さんが不思議そうに目を瞬かせました。日向さんはそちらへ視線を向けながらカチコチに固まった氷を溶かすように、温もりのある声で答えました。
「だって、犬に対して『何考えてんの』って言ったって、通じないじゃないか」
「……えっ?」
 天河さんと満天さんは、二人して顔を見合わせます。
 日向さんはわたくしの頭を優しく撫でてくださいますと、続けました。
「あれは飼い主に対しての発言だったんだよ。間違って怪我をさせちゃうようなところに、ネコちゃんを置いている俺に対して」
「……そうなの?」
 まだ少し疑問を覚えているかのように、(いぶか)しげな表情の満天さん。天河さんは不機嫌な顔を崩さずに、ご自身の考えをまとめるかのように、ご自分の唇をなぞります。
「お前、あの二人と知り合いか?」
 満天さんが抱いていた質問を、天河さんは繰り返しました。
 わたくしもまた、同じ疑問を抱いていました。
 日向さんの口ぶりは、アカネさんと言う人を存じ上げての発言のように感じられるのです。
 ですが、あっさりと日向さんは首を横に振りました。
「全然。知らない」
「じゃあ何で、あのヒス女が犬嫌いじゃないなんて言えるんだよ?」
「ネコちゃんのことを何とも思っていないのなら、別に踏みつけて怪我をさせても構わないだろ?」
 日向さんの言葉に、わたくしはゾクリと背筋を震わせました。
 アカネさんが履いていたピンヒールは……とても痛そうでした。
 それがわたくしの身に突き刺さっていたとしたら。アカネさんの体重を全て受け止める形になっていましたら。
 ……この小さな身体はいともたやすく、潰れていたことでしょう。
「犬が嫌いで近づけないってこともあるんじゃない?」
 満天さんがもう一つの可能性を指摘しました。
「その場合、俺に対して怒るんじゃなく、反射的に「あっちへ行け」とか言いそうですよね」
 それがしごく当然だというように、日向さんは言い切ります。その声の調子はまるで、答えは一つしかないというように。
 アカネさんは――わたくしの身を案じて、飼い主に対して怒っていた。
 一連の出来事を思い返して、新たな視点で反芻(はんすう)します。
 不思議と、日向さんが言われるような答えがあっても良いのではと、思えてきます。
 ジンワリと、わたくしの胸にこみ上げてくる感情がありました。それはとても温かく優しい思いやり。
「あのアカネさんって人、天河と同じタイプなんだよ」
 口元をニヤつかせますと、日向さんが一言。
「……ああ」
 満天さんがなるほど、と頷きました。
 天河さんと同じタイプ――それは口が悪いために、人に誤解されがちだということでしょう。
「ミドリさんも言っていたでしょ、悪気があったわけじゃないって」
「何だ?」
 天河さんだけが訳がわからないと、眉を吊り上げています。
 そんな天河さんに満天さんは目を向けますと、柔らかく微笑みました。
 日向さんが答えあわせをするように、言いました。
「優しいんだけど、それを見透かされるのが嫌で、ぶっきらぼうな振りをするんだ」
「何のことを言ってんだ、お前は。気色悪ぃ」
 優しいと言われたことに反発するように、天河さんは顔を歪めました。その表情は、まるで苦い薬を飲んだときの日向さんのようです。
 クスクスとカウンターの内側で、満天さんは笑っています。それから思い出したように、日向さんに尋ねました。
「じゃあ、アカネさんがミドリさんのお姉さんだっていうのは、どんな根拠があって?」
 日向さんは満天さんに顔を向けて、笑って答えました。
「うーん、お姉さんタイプっていうか。主導権を握っているようだったからかな? まあ、天河の場合は末っ子のわがままタイプなんだけど」
「誰がわがままだっ!」
 天河さんは肩を怒らせますと、トレイを日向さんの後頭部に落しました。
 ああ、天河さん。あまり、日向さんの頭に刺激を与えないで下さい。日向さんは、受験を控えている御身なのですから。
 ハラハラと日向さんの腕の中で、わたくしが気を揉んでいますと、片手で頭を抱えてた日向さんが「あれ?」と、小さく呟きました。
 どうした? と、天河さんが日向さんの視線を辿れば、窓の外からこちらの様子を伺っているミドリさんの姿がありました。
 わたくしどもと目が合いますと、ミドリさんはそのお顔に困ったような笑みを浮かべました。
 日向さんはヒョイと手を動かしますと、ミドリさんに向って手招きしました。それで、ミドリさんは決心がついたのでしょうか。再び、ベガの扉を開けて戻ってきたのでした。


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