トップへ  本棚へ



 ― 4 ―


 開いたドアから、夏の熱気が侵入してきます。見えない空気ですが、そこには夏の存在を感じる温度。
 冷気を浸食するそれは何かの前触れのように思え、わたくしの胸はざわつきました。
 ミドリさんがアカネさんを追いかけていって、約十分が過ぎたでしょうか。
 再び、「ベガ」に姿を見せたミドリさんは少し恐縮した様子で開口一番、謝罪の言葉を口にされました。
「先程は、騒々しくしてしまって済みませんでした」
 ぺこりと身体を折り曲げますと、その勢いでストレートの髪がふわりと踊りました。
 風を孕み、空に舞った髪がさらりと落ち着いても、ミドリさんは頭を下げたままでした。顔を上げるタイミングがわからないご様子です。
 それを察したのでしょうか、天河さんが口火を切りました。
「ご注文は?」
 今までの過程をまるっきり無視した問いかけは、きっと天河さんの思いやりなのだと思います。
 謝るほどのことではないのだと、言外に告げるように、天河さんは繰り返しました。
「ご注文は?」
 僅かに顔を上げて、ミドリさんは戸惑ったように、睫を瞬かせました。
「当店は一応、喫茶店ですけど。ランチメニューも揃っていますよ」
 満天さんが、パンダさんのような愛嬌溢れる笑顔で言いました。
 お昼の時間はとうに過ぎていますけど、このベガでは材料が揃っている限り、時間を問わずにお客様の要望に応えて下さります。
「ちなみに俺のおススメは、ふわふわオムライス。満天さんのデミグラは絶品だよね」
 日向さんが天河さんに問いかければ、
「当然だろ」
 と、お兄さんびいきである天河さんは、唇の端を吊り上げてニッと笑いました。
 一見、とっつきにくそうで無愛想に見えます天河さんの、その笑顔にミドリさんの緊張は解けたようです。
「じゃあ、それをお願いします」
「はい」
 満天さんは頷いてカウンター奥の厨房に消えました。
 ミドリさんはカウンター正面のスツールに、日向さんと並んで腰掛けました。
 天河さんがカウンターに入り、ミドリさんにお冷を用意します。それから、日向さんが食べましたデザートの食器を片付けます。カチカチと丁寧に扱われていますが、それでも食器が重なる音が店内に響きました。
 ミドリさんはチラリと日向さんに目を向けました。
 話し出すタイミングを伺っているようです。日向さんはそれに応えるように微笑むと、ミドリさんに問いかけました。
「ミドリさんとアカネさんの名前って、色なんですね。字は「緑」と「茜」かな?」
 カウンターの上で、日向さんは指を滑らせました。見えない鉛筆で見えない文字を描きます。
「大抵の人はそう思うんだけど、私の名前は水に鳥と書いて「水鳥」って言うの。アカネちゃんは朱色の音で「朱音」です」
 同じように水鳥さんの指がテーブルの上で文字を描きます。それは日向さんが描いた文字とは明らかに違っていました。
「うわっ、一本取られた」
 日向さんが大げさに驚けば、カウンターに戻ってきた天河さんが冷たく突っ込みました。
「アホだろ、お前」
 天河さん、世の中には言霊というものが存在するそうです。
 お願いですから、日向さんの将来に暗雲をもたらすようなお言葉は、控えて頂けないでしょうか。
 今冬こそ、日向さんには無事に試験を受けて頂きたいと、わたくしは思うのです。
「あ、ちなみに俺は結城日向です。こっちが星野天河で、マスターが満天さん。字はこう書いて――」
 それぞれの名前を書いて、一通り紹介が終ったところで、日向さんは小首を傾げました。
「水鳥さんは、犬が苦手じゃないんですね」
「あ、うん。私は大丈夫。むしろ、好きよ。ネコちゃんを撫でてもいいかしら?」
 日向さんの問いかけに水鳥さんは活きよいよく頷きますと、そっと手を持ち上げました。
 わたくしは、日向さんの腕の中で身を乗り出します。
 大丈夫ですよ、と態度で示せば、日向さんは笑って頷いてくださいました。
 水鳥さんの指先が私の頭に触れ、毛を優しく梳きます。指がわたくしの頬を撫で、首へと下ります。実に自然な手つきで、わたくしは気がつけば次の瞬間、水鳥さんの腕の中にいました。
 わたくしは人懐っこい方だと言われますが、その実、日向さん以外にはあまり抱かれたことがありません。
 少し身体を強張らせていますと、水鳥さんの手のひらがとても優しくて、わたくしの身体を貫いていた緊張という芯が抜かれるのを感じました。
 水鳥さんの腕の中で、日向さんの腕の中にいるような心地よさに身を丸くするわたくしに、
「犬の扱いに慣れているんですね」
 感心したように日向さんが言いました。
「昔、家で犬を飼っていたの」
 水鳥さんはフフッと声を軽やかに響かせて、笑いました。
「あん? 姉貴の方は犬が苦手なんだろ?」
 天河さんはスッカリ、お客様を相手にしているという概念を取り払って、ぞんざいな口調で朱音さんのことを口にしました。水鳥さんは驚いたように、目を丸くします。
「あっ? やっぱり朱音ちゃんが犬嫌いなこと、わかりました?」
「あれー? 嫌いじゃなくって、苦手なだけでしょ?」
 日向さんが小首を傾げますと、水鳥さんはパチパチと睫を瞬かせました。
 それを受けて、日向さんは先程展開させた推論を口にします。話を聞きながら、水鳥さんは「そうなのかしら?」と、呟きこぼしました。
 水鳥さんも、朱音さんは犬嫌いなのだと思っていたようです。
「優しい人ですよね、朱音さんって」
 ニッコリと日向さんが断言されると、戸惑っていた水鳥さんもキッパリと頷きました。
「そう、誤解されやすいけど、朱音ちゃんは面倒見がよくって、優しいの」
 何かを思い出すように瞳を細めて、水鳥さんは続けました。
「小さい頃……三つか、四つの頃かな? 近所の男の子が野良犬に追いかけられていたの。その子は、ちょっといじめっ子で、公園に集まる同い年の子たちに意地悪していたの。朱音ちゃんはその子の意地悪に対して怒っていて、いい気味だって言っていたんだけど、結局、見捨てられなかったのね。野良犬に石を投げて、男の子から犬の注意を逸らしたの」
「もしかしてそのときに、朱音さんは犬が苦手に?」
「……うん。犬にがぶりと噛まれちゃって。流石の朱音ちゃんもビックリしちゃって、泣き出しちゃった。それ以来、犬が近づくと、拒否反応が激しくて……」
「犬嫌いだと思ったんですね?」
 日向さんの言葉に、水鳥さんはコクリと首を前に倒しました。
「でも、結城君の話を聞いたら違うのかなって、ちょっと、思ったんだけど」
「犬を飼っていたということですけど、そのときの反応は?」
 日向さんの問いかけに、水鳥さんは首を横に振りました。さらりとストレートの髪が肩を撫でます。シャンプーの爽やかな香りがわたくしの鼻腔をくすぐりました。
「両親が犬好きで、どうしても犬を飼いたいって言ったとき、朱音ちゃんは酷く怒ったの。嫌だって。それでも、父はもう知人から犬を貰う手はずをつけていて、今さら止められないって言って、無理を通して」
「あの姉貴にして、この父ありって感じだな。どっちも、我が強そうだ」
 天河さんが口を挟めば、水鳥さんは「確かに、似ているかも」と、苦笑をこぼしました。
 かく言う天河さんは、朱音さんに似ていると言われています。
 お客様相手に、自分の意見を棘交じりに口にされる辺り、天河さんも自己主張の点に於いては負けてはいません。
「だから、朱音ちゃんには犬を近づけさせないように、裏庭に犬小屋を作って、世話は私と両親でしたの」
「何年くらいになるんですか、犬を飼って」
「十年くらいは飼っていたと思うわ。私たちが高校三年のとき……」
「死んだのか、その犬」
 水鳥さんが微かに言いよどんだ言葉の隙間に、天河さんがズバリと切り込みます。
 配慮が足りないように思えますが、天河さんは言いにくいことを代弁してあげたのだと思います。
 天河さんは口が悪いけれど、いい人なのです。朱音さんが、そうであったように。
 刺々しい態度の裏に隠された優しさは、見える人にはちゃんと見えるものです。
 水鳥さんは天河さんに視線を向けますと、小さく頷きました。
「もう十年も生きていたから、老犬でした。だから……」
 声が小さくすぼみました。
 水鳥さんを見上げますと、眉間に皺を寄せて何か、難題に突き当たったかのような表情をしていました。
 どうしたのでしょう?
 そうわたくしが首を傾げますと、日向さんが水鳥さんに問いかけました。
「どうかしたんですか?」
「父が――その犬を……コロンっていう名前ですけど。そのコロンを朱音ちゃんが、殺した……みたいなことを言ったんです」
「えっ?」
 日向さんは大きな目を見開きました。


 前へ  目次へ  次へ