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 ― 5 ―


 ――殺された?
 わたくしは、水鳥さんの腕の中で驚きに身を硬くしました。真偽はともかく、物騒な単語に心臓がわし掴みされたように、キュッと縮みます。
「それ、どういうことですか?」
 日向さんは身を乗り出して、水鳥さんに尋ねました。
 朱音さんは犬が苦手ですが、本当は優しい人だ――と、日向さんは言いました。
 わたくしも日向さんのお言葉には賛成です。
 だから、朱音さんが飼い犬だったコロンさんを手に掛けたなど、きっと何かの間違いでしょう。
「犬に近づけないんだろ、アンタの姉貴は。どうやって、殺したって言うんだよ?」
 天河さんが水鳥さんを軽く睨みます。
 水鳥さんは小さく頭を振りました。
「……わからないんです、それが。あの日は、私も父も帰りが遅くなったの。あの……覚えていますか? 何年か前に大雨が降って大停電して、電車が運行できなくなったの」
「ああ、二年前の五月頃だったか。原因は雷だったよな」
「よく覚えているな、天河は」
 さらりと言いました天河さんに、日向さんは感心していました。
「動けなくなった客が、時間潰しや飯を食いに店に流れてきたんだよ。丁度、帰宅時間に重なった停電で外は暗いし雨が降っていたから、懐中電灯やらロウソク灯して、対応したからな。嫌でも記憶に残るだろ」
「停電していても、店を開けていたんだ? 相変わらず、商魂逞しいっていうか」
「客が向こうから来て、金を落としてくれるんだ。わざわざ、店を閉める理由なんかねぇだろ? オーブンとか使えねぇけど、ガスは使えるんだし」
 ふん、と。天河さんは鼻を鳴らして、日向さんの言葉を一蹴しました。
「その日のことよ。朱音ちゃん以外に家には誰もいなかったの。……母は私たちが高校に上がった頃、亡くなっていて……」
 水鳥さんの声が僅かに掠れました。お亡くなりになられたお母様のことを思い出されたのでしょうか、睫が微かに震えていました。
 口を差し挟むのに躊躇ちゅうちょするような間が、空きました。
 カチャンと陶器がぶつかる音がして、そちらに目を向けますと、天河さんがコーヒーを注いだカップを置くところでした。
「サービス」
 ぶっきらぼうに言って、日向さんにもコーヒーを差し出してくださいました。
「あ、ありがとうございます」
 水鳥さんが礼を言いますと、天河さんは厨房へと続く入り口の壁に背中を預けました。そうして、自分の手に持ったカップを持ち上げました。
「俺が飲みたかったんだ」
 水鳥さんから視線をそらして、天河さんはコーヒーを口にしました。
 日向さんがクスリと笑っています。
 沈黙に重く滞っていた場の空気が、天河さんの言葉一つで緩やかに流れ出すのを感じます。
 わたくしは、はしたないことを承知で、水鳥さんの腕からカウンターの上へジャンプしました。
 わたくしを抱いていては、コーヒーもゆっくり味わってはいられないでしょう。
 そう考えまして、水鳥さんの腕から勢いをつけて跳びますと、着地の際に磨かれた天板に足を滑らせて転んでしまいました。
 コツンと、頭をぶつけます。
 ――い、痛いです。
 じわりと涙が滲みそうになりますが、な、泣きません。女の子ですもの。
 俯いて涙を我慢しておりますと、日向さんの優しい手のひらがわたくしの背中を労わるように撫でてくださいました。それだけで、頭の痺れるような痛みは消えていきます。 
「飲みませんか? 満天さんが()れてくれるコーヒーほどじゃないですけど、天河のコーヒーも美味しいですよ?」
 日向さんが促せば、水鳥さんはホッと息を吐くように微笑みました。
 カップを口元に運んで一口含んだところで、意を決したように水鳥さんは顔を上げました。
「母が亡くなってから、朱音ちゃんは家事全般を引き受けていたの。ちょっと、気が強いけれど、面倒見がいいのよ。そんな朱音ちゃんが、犬が嫌いだからってコロンを殺すはずなんてないと思うの。でも、あの日、夜遅くなって私が家に帰ったときには、居間でコロンが死んでいて……。私より少し早く帰ってきていた父は、朱音ちゃんのせいでコロンが死んだって怒っていたの。――それ以来、二人は仲違いしてしまって……今日だって」
 再び、水鳥さんの表情が愁いに沈みました。
「――朱音さんと何かあったんですか?」
 日向さんが問いますと、水鳥さんは苦笑しました。
「父が夏バテで入院したの。大したことはないんだけど、これを機会に仲直りしてみたらどうかなと思って、一緒にお見舞いを計画してみたんだけれど……」
 水鳥さんのお話では、朱音さんはコロンさんの一件で家を飛び出したそうです。
 そうして、隣町の亡くなったお母様のご実家から学校に通われるようになって、ここ数年、お父様とはお顔を合わせていないとのこと。
「――頑固者だな」
 呆れたように天河さんが首を振りますと、水鳥さんは自分が叱られたかのように、小さく首を竦めました。
「で、お見舞いの話を朱音さんにしたら、怒って出て行っちゃった?」
 小首を傾げた日向さんに、水鳥さんはコクンと首を頷かせました。
「よくわかるのね」
「そういう性格なんでしょ? 朱音さんって。真っ直ぐで、自分が間違ったことをしているなんて思っていないから、頑固なんですよ」
「結城君は、朱音ちゃんのことをよく知っているみたい」
「似たような人間を知っているから」
 チラリと日向さんの視線が動きますと、天河さんは再び、ふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向きます。照れていらっしゃるのでしょう。
 丁度、厨房から満天さんが現れました。
「オムライス一つ、お待たせしました」
 水鳥さんの前に置かれたオムライスは、それはとても美味しそうでした。
 卵の金色に、デミグラスソースの芳醇な香り。
 あんなにお腹一杯に食べましたわたくしも、思わずお腹を鳴らしてしまうような――お恥ずかしい話ではありますが――匂いがふわりと漂い、食欲をそそります。
「――美味しそう」
 水鳥さんは顔色を輝かせ、早速とばかりにスプーンで一口掬います。それを口へと運びますと、次の瞬間、感嘆の吐息を漏らしました。
「美味しい……」
 感激に潤んだような声に、満天さんはそっと微笑みました。
 天河さんは黙ってコーヒーを啜っていましたが、ニッと唇の端を持ち上げたのをわたくしは見逃しませんでした。
「わー、本当に美味しいです。朱音ちゃんにも、このオムライスを教えて上げたいな」
「お客様は歓迎ですよ」
「朱音ちゃん、料理が得意なの。だから、美味しいものの研究には熱心なの。ちょっと評判のお店に行っては、そこのお店の人と仲良くなって、秘伝のレシピとかこっそり教えてもらったりして」
「へぇ」
「それで、私にも作ってくれるの。朱音ちゃんのおかげで、私も結構、舌には自信があるわ。このオムライスは、本当に美味しいです」
「そう言って貰えますと、作った方としましても嬉しい限りです」
 満天さんが言葉通りの笑顔を見せたその時です。
 日向さんがポツリと呟きました。
「――ああ、そういうことか」
 どこか放心したような日向さんの声音は、何だか場違いに響いて、わたくしを始めとしまして、天河さん、満天さん、水鳥さんの視線を集めました。
 四対の双眸に見つめられるなか、日向さんはどこか心ここにあらずといった感じで、
「……時期的には?」
 と、ボソボソと呟いています。
「オイ、日向?」
 天河さんが訝しげに名前を呼びますと、日向さんはハッと我に返ったように顔を上げました。
 それから、満天さんの顔を見上げ、とある質問をしました。
 その内容に、満天さんが戸惑った表情のまま答えますと、日向さんは水鳥さんを振り返りました。
「朱音さんとお父さんの喧嘩の原因、わかりました」


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