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 ― 7 ―


 ――朱音さんが作った夕食が、コロンさんを殺した。
 日向さんの口から淡々と告げられた事実を前に、朱音さんが立ち上がりました。
「何で、見ず知らずのアンタまでそんなこと言うのっ? アタシ、何もしていないわよっ! あのコはっ、あの犬はっ――勝手に死んだっ! アタシ、何もしていないわっ」
 叫んだ朱音さんの声に、お父様はテーブルの天板を叩きました。
 打ち付けた拳が、ドンという音を立てます。
 その振動に揺さぶられ、コップの水が透明なグラスの中で跳ねました。
「お前はまだ、そんなことを言って自分がしたことを誤魔化すつもりかっ!」
 激高(げっこう)に顔を赤らめて、お父様は朱音さんを睨みます。朱音さんもまた怒りに唇を震わせながら、お父様を睨み返しました。
 お店に入って、初めて交わされた視線が、こんなに痛々しいものであるなんて、わたくしは悲しくなって日向さんの腕の中で鳴いてしまいました。
 ――クゥン……。
「日向さん、どうしましょう?」
 不安に揺れますわたくしの声に、日向さんは優しい笑みを差し向けてくださいました。
 お日様のような笑顔は、一瞬にしてわたくしの憂いを取り払ってくださいます。
「――大丈夫。誤解が解ければ、仲直りできるよ」
 軽いウィンク一つ。
 そうして、日向さんは朱音さんとお父様の間に割り込みました。
「お父さんも朱音さんも落ち着いてください」
「落ち着けって、どうやって? 皆して、アタシを馬鹿にして! アタシをそんなにロクデナシにしたいの? 幾ら嫌いだからって、アタシは生き物を殺したりしないわよっ!」
 それは悲鳴のような声でした。
 コロンさんを殺したと疑われていることが、どれだけ朱音さんを傷つけたことか。
 瞳にあふれ出した涙が物語っています。
 そう、これは何かの誤解です。朱音さんは優しい人。その朱音さんがコロンさんを殺すはずはありません。
「朱音さんはロクデナシなんかじゃありません。とても、優しい人です。あの日だって、お腹を空かせていたコロンに餌を上げるつもりだった、そうでしょう?」
 柔らかな問いかけに、朱音さんは嗚咽が混じる息を止めて、日向さんを振り返りました。
 言葉を発しようとすれば、しゃっくりが喉から飛び出して、朱音さんの声は再び小さな嗚咽に変わりました。
「アタシ……アタシは……殺して……いない……」
 それでも、搾り出すように朱音さんは訴えました。
「――だが」
 お父様は何かを言いかけましたが、日向さんが片手をあげて言葉を制したため、唇を結びました。
「水鳥さん、天河でも、満天さんでもいい。コロンが死んだ原因はもうわかっているだろ? 朱音さんに教えてやってくれないかな。多分、朱音さんは知らないんだ。それが犬にどういう影響を与えるかを」
「――は? だって、犬を飼っていたんだろ?」
 天河さんが目をパチパチと瞬かせながら、言いました。
 その言動から察するところ、天河さんはコロンさんの死因がわかっているようです。
「犬を飼ってはいたけれど、コロンの世話には、朱音さんは一切関知していなかった。コロンを飼うことになったとき、朱音さんは酷く怒った。それ以来、朱音さんの前で犬の話をすることも避けていたんじゃないんですか?」
 日向さんは確認するように、お父様と水鳥さんに目を向けます。
 お二人は、暫し考え込んだ後、コクリと首を前後に動かしました。
「だから、朱音さんはドックフードの置き場所すら知らなかった。知っていたら、ドックフードを与えていて、決して、ハンバーグを食べさせたりはしなかったと思います。――朱音さん」
 日向さんがゆっくりと、一音一音をかみ含めるように、朱音さんの名前を口にします。
 名前を呼ばれて、朱音さんは涙がにじんで赤くなった目で、日向さんを見つめ返しました。
「朱音さん――犬にタマネギは猛毒なんです」
 その一言は、シンと静まり返った店内に寒々しく響きました。
「タマネギが入ったハンバーグは、犬に与えちゃ駄目なんです」
 日向さんの言葉に朱音さんの身体はぐらりと揺れました。支える力を失くしたように、ソファの上に崩れます。
「…………あ、アタシ……そんなこと、知らない」
 ぶるぶると震える唇から、吐き出された言葉が、朱音さんとお父様の確執(かくしつ)を解明する鍵でした。
 お父様の目が大きく見開かれます。
「……知らなかったのか?」
 信じがたいと言いたげな声音を、日向さんが引き取りました。
「知らなかったんです、朱音さんは。朱音さんの犬嫌いは周りでも、かなり認知されていたんじゃないんですか?」
 日向さんの目が水鳥さんに向けば、水鳥さんは「はい」と頷かれました。
「私が先回りして、友達にもそういう話をしないように頼んでいたの」
 朱音さんと水鳥さんは、双子です。
 同学年で集っていれば、当然、お友達も共通の方となるでしょう。
 日向さんは答えに得心されたように、頷きました。
 そうして、話を続けます。
「犬を飼っている人間ならある程度、常識なのかもしれないですけどね。ペットショップ辺りでも、注意されるだろうし、犬を飼っている人間同士だったら、餌の話とかしますし。まあ、最近はペットフードが豊富に売られているから、飼っているペットに人間と同じものを食べさせること自体、稀で。それが原因で飼い犬が死ぬことも少ないと思います。だから、犬に興味がない――関心がなかった朱音さんの耳にそういう情報、タマネギが犬にとって害のある食べ物だなんて知らなかった」
「……だが、何で? そこまで嫌っている、関心がなかったコロンに、……あの日に限ってメシを与えたんだ?」
 お父様の問いかける声には、先程までの覇気(はき)はありませんでした。
 数年来、朱音さんが意図的にコロンさんを殺したと――そう思い込んでいた事実がひっくり返ってしまったのです。
 足場を失った心もとなさが、そのまま声に現れていました。
「――あの日だから、朱音さんはコロンを見過ごせなかったんだと思います。お父さん、その出来事が起こった日のことを思い出してください。何がありました?」
 日向さんは、お父様に静かに問いかけました。


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