― 8 ― 「……あの日は、停電が……」 お父様のお言葉に、わたくしは先日、この「ベガ」で繰り広げられた会話を思い出していました。 確か、五月のある日。夕方に降り出した酷い雷雨で大停電を起こり、電車がストップしてしまったこと。 それで、水鳥さんとお父様は帰りが遅くなられて。お父様が水鳥さんより一足早く家に帰りついたならば、居間にお亡くなりになったコロンさんがいたこと。 「雷が酷かったですよね。落雷していたから、凄く心細かったと思いますよ。朱音さんも――そして、コロンも」 ああ、そういうことなのですね。 わたくしの小さき頭にも、雷に怯えるコロンさんの姿が見えてきます。 人間と違いまして、わたくしたち動物は、自然と言うものをハッキリと理解しているわけではありません。 だから、頭上で鳴り響いた雷の音に、天を走る青い稲光に、それは心の底から驚いたのでしょう。 わたくしにも経験があります。 大きな音に思わず、居間のソファセットの下に頭を入れて、震えていました。そんなわたくしを、日向さんは抱きしめて「怖くないよ」と優しくなだめて下さった思い出は、今ではわたくしの大切な宝物になりました。 轟く雷音に、コロンさんは我が身の危険を察知したのかもしれません。 ですが、コロンさんは庭に鎖で繋がれた身。逃げたくても逃げられず、不安に鳴いたに違いありません。 「朱音さんは、庭で鳴いているコロンを見つけて――見過ごせなかったんでしょう? だって、朱音さんは優しい人だから」 「お前、それで説明足りるのかよ?」 ニッコリと笑った日向さんに、天河さんが後頭部をペシリと叩いて突っ込みました。 「えっ? ――だから、朱音さんはだいっ嫌いないじめっ子が犬に追いかけられているのを見て、助けちゃうような人だよ?」 水鳥さんが語っていた朱音さんの本質。 何気なく交わされていた言葉を拾って、日向さんは真実の物語を紡いでゆきます。 「犬が苦手で、怖かったに違いないんだけど。それでも降りしきる雨の中、鳴いているコロンを見捨てることが、朱音さんにはできなかった――そうですよね?」 「……アタシ」 朱音さんは日向さんの視線を受けて、顔を赤らめました。 今まで、朱音さんに向けられた印象は、頑固で気が強いという、女性が嬉しいと思うものではありませんでした。 でも、朱音さんはそんな印象を逆手にとって、挑むような態度を取ってきました。 そこへ来て、日向さんが朱音さんに差し向けるのは、コロンさんを優しく見守った方への尊敬の眼差し。 自らに与えられた視線の色が今までと違うことで、戸惑われたようです。 「朱音さんはそうして、コロンを家の中に迎え入れた。朱音さんにしてみれば、お父さんや水鳥さんが大切に可愛がっているペットです。家に入れても怒られないと判断したと思います。そうして、お腹を空かせていたコロンに、餌をあげようとしたけれど……残念ながら、ドックフードの置き場所がわからない」 「……だから、ハンバーグを……」 水鳥さんが呆然と呟きます。そのお隣で、朱音さんは「知らなかった」と涙を流しました。 犬に与えるタマネギの害毒を朱音さんが知っていたならば、コロンさんにハンバーグを与えることは絶対なかったことでしょう。 ですが、朱音さんはその知識を与えられずに、善意からコロンさんにハンバーグを与えてしまった。 お父様にとっては、朱音さんが犬を飼っている人間にとって一種の常識である「タマネギの害」を知らないことが信じられず、故意に朱音さんがタマネギ入りのハンバーグを食べさせたのだと思われたのでしょう。 お父様は朱音さんを一方的に責めてしまった。 何故なら、お父様にとってコロンさんは大事な家族で――。 そして、すべては誤解だったのですが、娘がペットに手を掛けた人としてあるまじき行為に、親として憤りを感じられたのでしょう。 責める言葉の前に、朱音さんは何も悪いことをしていないと、弁明したでしょう。 その言い訳がまた、お父様を頑なにさせたのかもしれません。 自分の娘が、小さな命を潰すロクデナシであること、その罪を開き直りともとれる言動で否定すること。 お父様にとって朱音さんも水鳥さんも自慢のお子さんであったのでしょう。だからこそ、親として、情けなくて悔しく歯痒く、やりきれなかったに違いありません。 朱音さんとお父様――その気質は、とてもよく似ています。 真っ直ぐで、曲がったことが嫌いな正義感。 二人とも、同じぐらいに純粋であるからこそ、誤解が作り出した歪みはお二人を引き離して……。 何という悲劇でしょう。 朱音さんもお父様も、コロンさんを思いやったがために……。 今、朱音さんの傷を抉ることで、その誤解を解くことは叶いました。けれど、朱音さんの瞳からこぼれる涙は痛々しく、見ているわたくしの胸をも締め付けます。 きっと朱音さんは、自分が「タマネギの害」を知らなかったことを、これからご自身に責め続けることでしょう。 朱音さんは、恐れている犬にも義侠心を発揮する心優しい人です。 所詮は「犬」だと言って、「しょうがなかった」とやり過ごすような方ではないということは、その涙でわかります。 どうしたら、朱音さんの心の傷を。 記憶に刺さった棘を抜き払うことができるでしょうか? 「――朱音さん、ネコを抱いてみませんか?」 唐突に、日向さんの声がわたくしの頭上で響きました。 そのいきなりの提案に、朱音さんは一瞬、目をぱちくりと見開きました。 「抱いてみてください」 日向さんは、わたくしを朱音さんの方へと差し出します。 朱音さんの顔がわたくしの目と鼻の先に迫りました。泣いたことで、赤く充血した目。そこからハラハラとこぼれる雫。 「――泣かないでください、朱音さん」 わたくしは、言葉が通じないとわかっていても、そう語りかけていました。 しかし、どうあってもわたくしは犬です。声は「クンクン」という鳴き声にしか、響きません。 それでも、わたくしは朱音さんに話しかけます。 どうしても、伝えたいことがあるのです。 「朱音さん、コロンさんはとても幸せな飼い犬でした」 お父様や水鳥さんに愛されて――そして、最後に自分を嫌っていたはずの朱音さんに優しくしていただいて、とても幸せだったと思うのです。 降りしきる雨の中、か細く鳴いていたその声を聞き届けて、家の中に迎えてくださった朱音さんの優しさを、雪の日に日向さんに拾われて生き延びたわたくしは、我に与えられたことのように、温かく感じとることができます。 だからこそ、コロンさんのお心を語りたいと思います。 「朱音さん、大好きです」 朱音さんのハンバーグが、命を縮めた原因になったとしても。 わたくしならば、恨みません。きっと、コロンさんも恨んではいません。 朱音さんが施してくださった優しさに満たされて、これ以上何を望むというのですか? 幸せです。幸せでした。だから、泣かないでください。責めないでください。 祈りを込めて、わたくしは囁きます。 貴方の笑顔を見せてください。コロンさんのためにも。 綺麗なバラには棘があると言います。 朱音さんとコロンさんを結ぶ記憶にも、棘はあります。 ですが、心に刺さった棘の痛みに囚われないで、艶やかに美しく華が咲いていたことを思い出してください。 わたくしは日向さんの手から、身を乗り出して、朱音さんの目元をペロリと舐めました。 犬であるわたくしには、このような方法でしか、朱音さんの涙を拭うことはできません。 そんなわたくしに、朱音さんは一瞬、驚いたようですが、 「お前……アタシを慰めてくれるの?」 泣き顔を崩して、口元を緩く解かれました。ゆっくりと手が持ち上がり、わたくしは朱音さんの腕の中に包まれます。 「――動物は、自分に対して敵意を持っている者には基本的に懐きません。朱音さん、あの雨の日、コロンはおとなしく朱音さんに従ったのでしょう?」 日向さんが問いかけますと、朱音さんは目を上げて、小さく頷きました。 「コロンは、ちゃんとわかっていたんです。朱音さんが優しい人だっていうこと。――ねぇ、そうでしょう? お父さん」 お日様のような笑顔で日向さんは、お父様に尋ねます。 誤解に凍りついていたわだかまりは、お日様の暖かさに解けて、お父様の声は穏やかに響きました。 「――ああ、そうだな」 |